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承久の乱——1221年、義時が朝廷を実力で下した日
1221年、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発した。義時は姉・政子の檄のもと大軍を京へ送り、朝廷軍を破った。武家が朝廷を実力で下したこの戦いは、日本の権力構造を根本から転換させた。
1221年(承久三年)5月、京都。後鳥羽上皇が、鎌倉幕府執権・北条義時の追討を命じる院宣を全国に発した。天皇家の権威を背景に、幕府に不満を持つ勢力を糾合しようとする挙兵だった。
報が鎌倉に届くと御家人は動揺した。朝敵となることへの恐れが幕府を揺るがす中、義時は姉・政子(本サイト id 24)と共に、朝廷に真正面から兵を向けるという前代未聞の決断を下した。
政子の檄
動揺する御家人を前に、姉・政子が結束を訴えたと『吾妻鏡』は伝える。頼朝以来の御恩を説き、上皇方に付くか幕府を守るかを迫る政子の言葉が、御家人の心を一つにしたとされる。
義時はこの結束を背景に、迷わず京への進軍を決めた。守勢に回れば朝廷の権威に幕府が呑まれる。攻勢によって一気に決着をつけるのが、義時の戦略だった。
京への進軍
義時は子・泰時と弟・時房を大将として、東海・東山・北陸の三道から大軍を京へ向かわせた。幕府軍は各地で朝廷方を破り、わずか一月ほどで京都を制圧した。朝廷方の抵抗はもろく、上皇の挙兵は軍事的にはあっけなく崩れた。
武家の組織された動員力が、朝廷の権威に頼る寄せ集めの軍を圧倒したのである。
権力構造の転換
乱後、幕府は後鳥羽上皇を隠岐へ、他の二上皇も配流とし、朝廷の皇位継承にまで介入した。京都に六波羅探題を置いて朝廷を監視下に置いた。天皇家が武家に実力で屈したこの事件は、日本の権力構造を根本から転換させた。
以後、政治の実権は明確に武家の側へ移る。義時個人の1221年の決断が、以後六百年以上続く武家政権の優位を決定づけた。1224年、義時は急死した。享年六十二。
"君を怨むにあらず。武家の世を守らんがために、兵を京に向くるのみ。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
吾妻鏡
鎌倉幕府編纂
承久の乱の経過と義時の対応を記録する
- 学術文献
北条義時
岩田慎平 / 中公新書
承久の乱の画期的意義を検討
- 公的所蔵
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