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執権継承——1205年、父を追放して鎌倉の実権を継いだ北条義時
1205年、牧氏事件で父・時政を失脚させた北条義時は、姉・政子と共に鎌倉幕府の実権を継いだ。父を追放して権力を握るという苛烈な選択が、北条執権政治の第二段階を開いた。
1205年(元久二年)閏7月、鎌倉。北条義時は、実の父・時政(本サイト id 70)を鎌倉から追放する側に回った。父・時政と後妻・牧の方が三代将軍・実朝の排除を企てた牧氏事件で、義時は姉・政子(本サイト id 24)と結んで父を失脚させた。
四十三歳。父を追い、幕府の実権を継ぐという苛烈な決断が、北条執権政治の第二段階を開いた。
頼朝挙兵からの従軍
義時は北条時政の子として1163年に生まれた。姉は源頼朝(本サイト id 23)の妻・政子である。1180年の頼朝挙兵に若くして従い、以後の鎌倉幕府創設の過程を父・時政と共に支えた。
頼朝の信任は篤く、義時は御家人の中でも別格の地位を得た。頼朝の死後、幕府の実権は将軍から有力御家人の合議へと移り、北条氏はその中心に位置した。義時はこの権力移行の渦中で政治的に成長していった。
父・時政との対決
1203年、時政は二代将軍・頼家を排除し実朝を擁立して政所別当(執権の起源)となった。しかし1205年、時政と牧の方は今度は実朝をも排除し、娘婿の平賀朝雅を将軍に立てようと図った。
義時と政子はこれを容れず、実朝を保護して父を伊豆へ隠退させた。実の父を追放するこの選択は、血縁より幕府の存続を優先する北条氏の非情な政治判断を示している。
二代執権として
父の失脚を受けて、義時は政所別当(執権)の地位を継いだ。姉・政子との二人三脚で、幕府の統治を主導する体制を築いた。義時は父・時政のように単独で突出することを避け、御家人の合議を尊重しつつ実権を握る巧みな統治を行った。
この慎重さが、時政が一代で失脚したのとは対照的に、義時の権力を長期にわたって安定させた。以後の承久の乱での勝利は、この基盤の上に築かれることになる。
"家を継ぐに、情を以てすべからず。幕府の続くを以て第一とすべし。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
吾妻鏡
鎌倉幕府編纂
義時の執権継承過程を伝える基本一次史料
- 学術文献
北条義時
岩田慎平 / 中公新書
牧氏事件と執権継承を検討
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート