資料No. SA-0029
侍アーカイブ
北条時宗
Hōjō Tokimune
鎌倉幕府第八代執権
第一章 — 人物概要
| 氏名 | 北条時宗 |
|---|---|
| 英名 | Hōjō Tokimune |
| 出身 | 日本 |
| 生没年 | 1251–1284 |
| 性別 | 男性 |
| 世紀 | 13世紀 |
| 家・役職 | 大名 |
| 肩書 | 鎌倉幕府第八代執権 |
第二章 — 経歴
1251年、北条時頼の長男として生まれた。1268年、十七歳で第八代執権となった。同年、元朝の使節が日本へ服属を求めて到着した。
彼の使節受け入れ拒否、そして1275年の第二次使節の処刑が、彼の治世を定義する二度の海上侵攻を準備した。1274年の文永の役と1281年の弘安の役である。元軍は元・高麗・南宋の連合艦隊で、日本本土を脅かした史上最大の侵攻軍であった。
両者とも撃退された。文永は日本の抵抗と、元艦隊を破壊した台風の組み合わせによる。弘安は二か月の持久戦が侵攻軍を消耗させた末に、再度の台風が到来して破った。
「神風」が日本の意識に侵攻撃退の説明として入った。時宗自身は若い頃を師・無学祖元のもとでの禅修行に費やしており、指揮の重圧に統制された平静さで臨んだ。1284年、三十三歳で没した。
心身の疲弊によるとされる。国を守ったが、防衛した武士たちに報いる資源を残せなかった。その代金を払えなかった事実が、五十年後の北条家の崩壊を準備した。
第三章 — 年表
第四章 — 名言
“莫煩悩——煩悩を捨てよ”
第五章 — 逸話
[A]使節の処刑
1275年に第二次の元朝使節が博多に到着すると、時宗は五人の使節を鎌倉まで連行させ、市中を引き回し、龍ノ口で斬首した。元朝の要求に対する意図的で取り返しのつかない拒絶であった。元朝は予想通り六年後に四千四百艘の艦隊で戻った。前近代世界史最大の侵攻軍である。時宗の防備は間の年月で整備されており、九州の浜辺で侵攻軍を釘付けにし、台風の到来を待った。
第六章 — 影響と遺産
時宗は現代日本語の「神風」が歴史的に指す人物である。臨済禅を大規模に保護し、1282年に鎌倉に円覚寺を建立した。その後七世紀の日本禅を方向付ける寺となった。元寇危機における彼の指導は、1868年の西郷隆盛の働きや1945年8月の交渉団の働きと並んで、日本の主権が国家的存亡危機から守られた瞬間の一つとして評価される。新領土を征服せずに戦に勝った武士たちに報酬を払う財政負担が、五十年後に幕府を破綻させ、後継者は時宗の生存が枯らした北条家の財政を回復させ得なかった。
第七章 — 主な功績
- [01]第一次元寇撃退(1274)
- [02]第二次元寇撃退(1281)
- [03]円覚寺建立(1282)
- [04]臨済禅の保護