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西と東——顕如の死後、本願寺はなぜ二つに分かれたか
1592年に顕如が没した後、本願寺は長男・教如系と三男・准如系に分裂した。1602年、徳川家康の支援で教如が東本願寺を分立、京都に西と東の二つの本願寺が並立することになった。
現在の京都に、二つの巨大な本願寺がある。七条堀川の西本願寺と、烏丸七条の東本願寺。歩いて数分の距離に、同じ宗祖・親鸞を奉じる二つの本山が並立している。この分立の起点は、1592年の顕如の死と、その後継をめぐる家族内部の対立にある。
石山合戦での兄弟対立
顕如には三人の息子がいた。長男・教如(1558-1614)、次男・顕尊、三男・准如(1577-1631)。1580年の朝廷勅命による講和の際、顕如は勅命に従って石山退去を決めたが、長男・教如はこれに反対し、石山に残って徹底抗戦を主張した。
父子の間で公然たる対立が生じ、教如は義絶(勘当)に近い状態となった。この時の対立が、後の分立の伏線となる。
顕如の遺志と准如の継承
1592年に顕如が没した際、遺言により本願寺法主の位は教如が継承した。しかし翌1593年、豊臣秀吉の介入により教如は隠居させられ、三男・准如が十二世法主となった。
教如を支持する門徒と准如を支持する門徒の間で、教団内部の分裂が固定化した。
徳川家康による東本願寺分立
1602年(慶長七年)、徳川家康は教如に京都烏丸七条の寺地を寄進し、新たに東本願寺(浄土真宗大谷派本山)を分立させた。家康の意図は、巨大な宗教勢力である本願寺を二分することで、統治上の脅威を低減することだったと解釈される。
この徳川の分立支援により、准如系の本山(西本願寺)と教如系の本山(東本願寺)が京都に並立することが確定した。
現代の西と東
西本願寺と東本願寺は、江戸期を通じて別々の教団として発展した。教義は同じ浄土真宗だが、組織・儀礼・行事は独立に運営されている。現代日本の浄土真宗信徒は約一千万人で、そのほぼ全員がどちらかの本願寺に所属する。
京都では「お西さん」「お東さん」の愛称で親しまれ、両寺の巨大な伽藍は京都駅前の風景の中核を成す。石山合戦を戦った顕如の遺産が、宗祖・親鸞から見て八百年後の現代日本にも、二つの本山として残り続けている。
"本願寺、東西二派に分かる。徳川の意による。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
本願寺文書
西本願寺伝来
顕如の遺言・後継問題を含む一次史料
- 学術文献
本願寺と信長
神田千里 / 講談社選書メチエ
本願寺分立の背景を検討
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート