保管文書
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資料No. SA-0059

侍アーカイブ

本願寺顕如

Hongan-ji Kennyo

本願寺十一世法主・石山本願寺住持

第一章 — 人物概要

氏名本願寺顕如
英名Hongan-ji Kennyo
出身日本
生没年1543–1592
性別男性
世紀16世紀
家・役職宗教家
肩書本願寺十一世法主・石山本願寺住持

第二章 — 経歴

1543年(天文十二年)、本願寺十世・証如の子として摂津国石山(現在の大阪市中央区)に生まれる。1554年、十二歳で父の死により本願寺十一世法主を継承。当時の本願寺教団は近畿・北陸・東海に強力な門徒組織を擁し、事実上の武装宗教勢力として戦国大名と対等に渡り合う存在だった。

1570年(元亀元年)、織田信長との対立が決定的となり、顕如は諸国門徒に信長打倒の檄を飛ばす。以後十年にわたる石山合戦が始まった。信長の包囲を石山本願寺(現在の大阪城の地)で耐え抜き、朝倉・浅井・武田・毛利ら反信長勢力と連携して信長を最も苦しめた敵の一つとなった。

1580年(天正八年)、正親町天皇の勅命による講和で石山本願寺から退去、紀伊国鷺森(現在の和歌山県和歌山市)に移った。1583年、豊臣秀吉により大坂の旧本願寺跡地の南、天満に寺地を得て本願寺を再建。1591年、京都七条堀川(現在の西本願寺)へ移転。

1592年(文禄元年)没、享年五十。

第三章 — 年表

1543摂津国石山に生誕
1554十二歳で本願寺十一世法主継承
1570織田信長との対立、石山合戦開始
1580石山本願寺退去、紀伊鷺森へ移る
1583豊臣秀吉より天満に寺地を得て本願寺再建
1591京都七条堀川(西本願寺)へ移転
1592京都にて没、享年五十

第四章 — 名言

信長は仏敵、討たずんばあるべからず。

-- 顕如が諸国門徒に発した檄文の趣旨(本願寺文書)

第五章 — 逸話

[A]石山合戦——十年戦争の構造

1570年から1580年まで、十年にわたって続いた石山合戦は、戦国末期における宗教勢力と大名権力の直接対決の最大例である。本願寺門徒は近畿・北陸・東海の広範な地域に組織され、加賀の一向一揆(1488年から百年近く続いた門徒による事実上の自治国家)を含む強大な武装勢力だった。

顕如は各地の門徒指導者と連携し、信長包囲網の一角を担った。石山本願寺自体も要塞化された城塞で、瀬戸内海の毛利水軍による物資補給を受けながら籠城戦を継続した。信長の武力による直接攻略は最後まで成功せず、決着は朝廷(正親町天皇)の勅命による講和という形をとった。

第六章 — 影響と遺産

顕如は戦国期における最大の宗教武装勢力の指導者として、織田信長の天下統一過程に大きな影響を与えた。石山合戦の十年間は信長の戦力を長期的に拘束し、他の戦線での判断にも影響した。1580年の講和後、顕如の系統が継承した本願寺は江戸期を通じて日本仏教最大の宗派の一つとして存続した。

1602年、顕如の長男・教如の系統が徳川家康の支援で東本願寺を分立し、以後の本願寺は東西二派に分かれた。京都七条堀川の西本願寺と烏丸七条の東本願寺は現在も浄土真宗本願寺派・真宗大谷派の本山として存続し、「京都のお西さん・お東さん」として親しまれている。

石山本願寺の跡地は豊臣秀吉により大坂城となり、現在の大阪の中心地の起点となった。

第七章 — 主な功績

  • [01]本願寺十一世法主継承(1554)
  • [02]石山合戦の指揮(1570-1580)
  • [03]紀伊鷺森・大坂天満・京都七条堀川への本願寺移転
  • [04]近畿・北陸・東海の門徒組織統率
  • [05]戦国期最大の宗教武装勢力の維持

第八章 — 参考資料

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    本願寺文書

    西本願寺伝来

    顕如の書状・檄文を含む本願寺教団の一次史料群

  • 学術文献

    本願寺と信長

    神田千里 / 講談社選書メチエ

    石山合戦の政治構造を実証的に検討する代表的研究

  • 公的所蔵

    西本願寺

    京都府京都市下京区

    浄土真宗本願寺派本山、顕如系統の本願寺

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