保管文書
JPN

資料No. SA-0030

侍アーカイブ

明智光秀

Akechi Mitsuhide

丹波亀山城主

第一章 — 人物概要

氏名明智光秀
英名Akechi Mitsuhide
出身日本
生没年1528?–1582
性別男性
世紀16世紀
家・役職大名
肩書丹波亀山城主

第二章 — 経歴

1528年頃、美濃の土岐明智氏に生まれたとされる。流浪の末に越前朝倉氏に仕え、ついで足利義昭の臣として信長に紹介された。比叡山焼き討ち(1571)、丹波平定(1575–1579)で大功を挙げ、信長軍団でも有数の方面軍司令官に上り詰めた。

1582年6月2日未明、中国攻めへ向かう途上で進路を京都へ転じ、本能寺に少数で滞在していた信長を急襲、自害に追い込んだ。動機は怨恨説・野望説・四国征伐回避説・朝廷黒幕説など現在も諸説あり、定説はない。十一日後、中国大返しで戻った秀吉に山崎の戦いで敗れ、敗走中に小栗栖の竹藪で土民の槍に斃れたと伝わる。

後世「三日天下」と呼ばれる短命の天下人となった。

第三章 — 年表

1528?美濃国に生誕
1568足利義昭を介して信長に仕える
1571比叡山焼き討ち
1579丹波平定、亀山城主となる
1582-06-02本能寺の変で信長を討つ
1582-06-13山崎の戦いで秀吉に敗北、小栗栖で死す

第四章 — 名言

敵は本能寺にあり

第五章 — 逸話

[A]三日天下

本能寺の後、光秀は朝廷工作と諸将への書状で正統性確保を図ったが、備中高松から驚異の速さで戻った秀吉により十一日で討たれた。「三日天下」の語と共に、わずかな支配で終わった天下人の代名詞となっている。

第六章 — 影響と遺産

光秀の謀反は、戦国の終結直前に起きた日本史上最大級の歴史的分岐点の一つである。「敵は本能寺にあり」のフレーズは、決断と裏切りの瞬間を表す日本語の慣用句として現代にも残る。動機をめぐる議論は四百年以上にわたって続き、谷口克広・桐野作人らの実証研究は近年も続いている。

第七章 — 主な功績

  • [01]比叡山焼き討ち(1571)
  • [02]丹波平定(1575–1579)
  • [03]亀山城築城
  • [04]明智光秀家中軍法
  • [05]本能寺の変(1582)

第八章 — 参考資料

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    信長公記

    太田牛一

    本能寺の変前後を含む信長家臣による同時代記録

  • 学術文献

    検証 本能寺の変

    谷口克広 / 吉川弘文館

    光秀謀反の動機を史料実証で検討した代表的研究

  • 公的所蔵

    福知山光秀ミュージアム

    京都府福知山市

    丹波領主時代の光秀関連資料を所蔵

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