資料No. SA-0033
侍アーカイブ
武田勝頼
Takeda Katsuyori
甲斐武田家第二十代当主

第一章 — 人物概要
| 氏名 | 武田勝頼 |
|---|---|
| 英名 | Takeda Katsuyori |
| 出身 | 日本 |
| 生没年 | 1546–1582 |
| 性別 | 男性 |
| 世紀 | 16世紀 |
| 家・役職 | 大名 |
| 肩書 | 甲斐武田家第二十代当主 |
第二章 — 経歴
1546年、武田信玄の四男として生まれる。母は諏訪頼重の娘で、当初は諏訪家の継承者として諏訪四郎を名乗っていた。長兄義信の自害を経て、1573年に信玄の死と共に武田家督を継承した。
1574年には信玄が二度試みても落とせなかった遠江高天神城を陥落させて家中の士気を上げた。1575年5月、織田・徳川連合軍と長篠で激突し、信長の鉄砲三千挺の集中運用により武田騎馬軍団は壊滅、譜代の重臣多数を失った。以降は再建が間に合わず、1582年3月、織田信長の甲斐侵攻に追われて天目山で正室・嫡男と共に自害した。
三十七歳、戦国最強と謳われた武田家はここに滅亡した。
第三章 — 年表
第四章 — 名言
“朧なる月もほのかに雲かすみ、晴れて行く方西の山の端”
第五章 — 逸話
[A]高天神の落城
1574年、勝頼は徳川領の遠江高天神城を攻略した。信玄も生前に二度試みて落とせなかった堅城で、勝頼の戦功として家中の士気を一時的に上げた。しかしこの勝利が翌年の長篠での積極攻撃を勝頼に決断させた、と後世の評は分かれる。
第六章 — 影響と遺産
武田勝頼は信玄の遺産を継ぐ重圧を生涯背負った。父の旧臣からの諏訪四郎という冷視と、武田家興隆を保つ責任の板挟みの中で、長篠の積極攻撃を選んだ。負け方の派手さから無能な後継者と評されることが多いが、近年の鴨川達夫らの研究では、信玄期から続いていた武田家の構造的問題が長篠で顕在化したという視点も示されている。
第七章 — 主な功績
- [01]諏訪家継承(1562)
- [02]武田家督継承(1573)
- [03]高天神城攻略(1574)
- [04]長篠の戦い(1575)
- [05]甲斐武田家滅亡(1582)
第八章 — 参考資料
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
甲陽軍鑑
高坂昌信(口述)・小幡景憲(編)
勝頼期の武田家を含む武田家臣の戦記
- 学術文献
武田氏滅亡
平山優 / KADOKAWA
勝頼期の武田家滅亡を史料実証で詳説
- 公的所蔵
おすすめ書籍
第十章 — 関連レポート
SA-RPT
長篠——騎馬軍団が死んだ日
1575年5月21日朝、武田勝頼の精鋭騎馬隊は三段に並んだ織田鉄砲隊三千挺へ突入した。日没までに武田の譜代重臣は半数近くが死に、戦国最強と呼ばれた軍団は終わった。
SA-RPT
天目山——武田家はいかに消えたか
長篠から七年、織田信長の甲斐侵攻軍が迫る中、武田勝頼は天目山の麓に追い詰められた。1582年3月11日、信玄死去から九年で武田家は終わった。
SA-RPT
勝頼は何を失い、信玄は何を勝ち取ったのか
信玄期と勝頼期の武田家を比較した時、最大の差は人材でも兵力でもなく、外交環境だった。勝頼は信玄が築いた同盟構造を継承できないまま、織田の包囲網の中で戦うことになった。



