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天目山——武田家はいかに消えたか
長篠から七年、織田信長の甲斐侵攻軍が迫る中、武田勝頼は天目山の麓に追い詰められた。1582年3月11日、信玄死去から九年で武田家は終わった。
1582年3月11日、武田勝頼は甲斐東部の天目山田野で正室・嫡男信勝と共に自害した。長篠の敗戦から七年、信玄の死から九年、戦国最強と謳われた武田家はここに滅亡した。
なぜ滅亡は早かったか
1582年2月、織田信長は四方面同時侵攻による武田攻撃を開始した。信忠率いる主力は岐阜から木曾路を、徳川家康は遠江から、北条氏政は関東から、金森長近は飛騨から進撃した。武田家の防衛体制は長篠以来の重臣損耗を回復できておらず、各地の城主は次々に降伏か逃亡を選んだ。木曾義昌・穴山信君ら譜代の重臣まで離反したことで、勝頼の指揮系統は決壊した。3月3日に新府城を放棄、3月7日に小山田信茂の岩殿城への退却を試みたが、小山田が拒絶。勝頼は天目山方面へ逃れた。
田野の最期
3月11日、勝頼は天目山の麓・田野で織田軍に追いつかれた。残った供は四十数名と伝わる。勝頼の正室は北条氏政の妹で、最期に共に死を選んだ。嫡男信勝は十六歳、勝頼に背を切らせて自害した。勝頼自身は享年三十七で生涯を閉じた。武田二十四将のうち、戦国期を生き延びた者は数名にとどまる。
信長による武田旧領処理
信長は武田家滅亡後、甲斐・信濃の旧領を河尻秀隆・森長可・滝川一益らに分割した。しかし三か月後の本能寺の変で信長自身が死亡し、武田旧領は本能寺後の混乱の中で徳川家康・北条氏直・上杉景勝の天正壬午の乱の戦場となる。武田家は滅亡したが、武田の旧臣の多くは徳川家康に再仕官し、井伊直政の赤備え部隊として武田流軍学を江戸期に伝えた。武田の名は消えたが、武田の人脈と軍法は徳川幕府の中に流れ込んだ。
"朧なる月もほのかに雲かすみ、晴れて行く方西の山の端。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
甲陽軍鑑
高坂昌信(口述)・小幡景憲(編)
勝頼の最期と武田家滅亡を武田家臣の視点で記録
- 学術文献
武田氏滅亡
平山優 / KADOKAWA
勝頼期の崩壊過程を史料実証で詳説した代表作
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート