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『信長は仏敵』——顕如はなぜ十年戦争を始めたか

1570年9月、二十七歳の本願寺法主・顕如は諸国の門徒に信長打倒の檄を飛ばす。日本史上最も長く、宗教と武力が絡み合った戦国末期の戦争、石山合戦の開始を辿る。

本願寺顕如石山合戦織田信長

1570年9月12日(元亀元年九月十二日)、摂津国石山(現在の大阪市中央区、大阪城の地)。本願寺十一世法主・顕如は諸国の門徒に一通の檄文を発した。「信長は仏敵、討たずんばあるべからず」。

織田信長を仏敵と規定し、全国の浄土真宗門徒に武装蜂起を呼びかける宣戦布告だった。顕如二十七歳。以後十年にわたる石山合戦がここから始まる。

本願寺教団という存在

当時の本願寺教団は、日本の宗教組織であると同時に、事実上の武装勢力だった。近畿・北陸・東海に広がる門徒組織は数十万規模と推定され、加賀国では1488年以降百年近く門徒による事実上の自治国家(一向一揆)が続いていた。

石山本願寺は要塞化された城塞で、独自の水軍・鉄砲隊を保有した。戦国大名と対等に渡り合う「もう一つの権力」だった。

信長との対立の構造

信長と本願寺の対立は、単なる宗教弾圧ではなく統治権をめぐる根本的な問題だった。信長の天下統一構想は、一元的な世俗権力による全国支配を目指した。宗教勢力が独自の武力と領域を持つ既存の秩序は、この構想と正面から衝突した。

1570年時点で、信長は既に足利義昭を奉じて上洛(1568)し、朝倉義景・浅井長政を攻撃していた。本願寺との対決は避けられない情勢にあった。

檄文の内容と反響

顕如の檄文は、信長が本願寺の破却を計画していると訴え、諸国門徒に武装蜂起を命じた。近畿・北陸・伊勢・三河の門徒が次々と挙兵し、信長の戦線は一気に拡大した。伊勢長島の一向一揆、三河一向一揆、越前一向一揆、加賀の門徒国家。

これらが連動して信長を包囲した。以後十年、信長は本願寺を最大の敵の一つとして戦い続けることになる。

"信長は仏敵、討たずんばあるべからず。"
顕如檄文(1570、本願寺文書、趣旨)

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    本願寺文書

    西本願寺伝来

    顕如の書状・檄文を含む一次史料

  • 学術文献

    本願寺と信長

    神田千里 / 講談社選書メチエ

    石山合戦開戦の政治構造を検討

  • 公的所蔵

    西本願寺

    京都府京都市下京区

    顕如系統の本願寺、浄土真宗本願寺派本山

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第十章 — 関連レポート

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