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資料No. SA-0049

侍アーカイブ

本多忠勝

Honda Tadakatsu

上総大多喜十万石・伊勢桑名十万石藩主、徳川四天王

本多忠勝

第一章 — 人物概要

氏名本多忠勝
英名Honda Tadakatsu
出身日本
生没年1548–1610
性別男性
世紀16世紀
家・役職
肩書上総大多喜十万石・伊勢桑名十万石藩主、徳川四天王

第二章 — 経歴

1548年(天文十七年)、三河国額田郡蔵前(現在の愛知県岡崎市)で本多忠高の長男として生まれる。父・忠高は1549年に戦死、忠勝は祖父・忠豊の養育を受けて育った。十三歳で松平元康(後の徳川家康)に出仕、以後家康の生涯を通じて軍事的中核として仕えた。

1570年の姉川の戦いで武名を挙げ、1572年三方ヶ原の戦い、1575年長篠の戦い、1584年小牧長久手の戦いなど、徳川の主要な合戦のほぼ全てに参戦した。1590年の関東移封で上総大多喜十万石を与えられ、1600年の関ヶ原戦後に伊勢桑名十万石へ転封された。

本多家は江戸期を通じて譜代大名として続き、忠勝の系統は岡崎・刈谷・福井など各地の藩主家となった。1610年(慶長十五年)、桑名で没した。享年六十三。同時代史料および後年の編纂史料を通じて、忠勝が大きな負傷を受けた記録は見つかっておらず、これが「生涯五十七戦無傷」という後世の評価の根拠となっている。

第三章 — 年表

1548三河国額田郡蔵前に生誕
1560桶狭間合戦に従軍、十三歳で初陣と伝わる
1570姉川の戦いで武名を上げる
1572三方ヶ原の戦いに参戦
1575長篠の戦いに参戦
1584小牧長久手の戦いで小規模兵力で羽柴本陣に迫る
1590関東移封で上総大多喜十万石
1600関ヶ原戦後、伊勢桑名十万石に転封
1610桑名にて没、享年六十三

第四章 — 名言

家康に過ぎたるものは二つあり、唐の頭に本多平八。

-- 三河物語に近い時期の俚言(豊臣方の評と伝わる)

第五章 — 逸話

[A]小牧長久手での寡兵対峙

1584年の小牧長久手の戦いで、忠勝は五百騎ほどの寡兵を率い、八万を超える羽柴秀吉の本軍と対峙したと三河物語などに伝わる。実戦には至らなかったが、秀吉が忠勝の軍紀の整然さを称賛し攻撃を控えたという逸話は、忠勝の武威を象徴するエピソードとして繰り返し語られる。

数字には誇張が含まれる可能性があるが、寡兵で大軍に対峙した事実は同時代の複数記録に裏付けがある。

[B]蜻蛉切と無傷の生涯

忠勝の愛槍「蜻蛉切」は天下三名槍の一つに数えられた長柄槍で、刃に止まった蜻蛉が二つに切れたという伝承から名付けられた。蜻蛉切の現物は本多家伝来として現存し、いくつかの博物館に所蔵されている。「生涯五十七戦無傷」という数字は江戸期の編纂史料(武功雑記など)に依拠するもので、五十七という具体的数字の出典は江戸後期の整理だが、忠勝が大きな負傷を負った記録が同時代史料に見当たらないこと自体は研究者間で広く認められている。

第六章 — 影響と遺産

本多忠勝は徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)の一人として、徳川幕府の創設過程の軍事的中核を担った。徳川四天王という呼称自体は江戸期に成立した尊称だが、四人が家康の軍団を支えた事実は史料に裏付けられている。忠勝の系統は江戸期を通じて譜代大名として続き、本多家各分家は岡崎・刈谷・福井・山崎・西端など全国に展開した。

蜻蛉切は江戸期から天下三名槍として認知され、現代でも本多家の象徴として伝えられている。三河物語(大久保彦左衛門忠教著)は忠勝の戦歴を最も詳しく伝える同時代史料として、徳川初期軍事史研究の基本文献となっている。

第七章 — 主な功績

  • [01]徳川家康への生涯奉公(13-63歳)
  • [02]姉川・三方ヶ原・長篠・小牧長久手など徳川の主要合戦への参戦
  • [03]上総大多喜藩開府(1590)
  • [04]伊勢桑名藩開府(1601)
  • [05]天下三名槍・蜻蛉切の所持

第八章 — 参考資料

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    三河物語

    大久保彦左衛門忠教

    徳川初期家臣が著した同時代家中記録、忠勝の戦歴を詳述する基本史料

  • 学術文献

    徳川四天王

    煎本増夫 / 新人物往来社

    徳川四天王四人の事績を史料批判的に整理した代表的研究

  • 公的所蔵

    大多喜城・千葉県立中央博物館大多喜城分館

    千葉県大多喜町

    忠勝が初代藩主を務めた大多喜城、本多家関連資料を所蔵

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