資料No. SA-0043
侍アーカイブ
上泉信綱
Kamiizumi Nobutsuna
新陰流開祖・上野大胡城主

第一章 — 人物概要
| 氏名 | 上泉信綱 |
|---|---|
| 英名 | Kamiizumi Nobutsuna |
| 出身 | 日本 |
| 生没年 | 1508?–1577? |
| 性別 | 男性 |
| 世紀 | 16世紀 |
| 家・役職 | 剣豪 |
| 肩書 | 新陰流開祖・上野大胡城主 |
第二章 — 経歴
1508年頃、上野国大胡(現在の群馬県前橋市)に生まれる。父祖伝来の城主家に生まれ、武蔵守愛洲移香斎より陰流を学んだ。永禄期(1558–1570)に陰流から新陰流を編み出し、剣の理論と技術を体系化した。
1563年頃から廻国修行に出て、将軍足利義輝・伊勢北畠具教・大和柳生宗厳らに剣を授けた。義輝は「剣豪将軍」と呼ばれるほどの剣才を示し、信綱の教えを受けたとされる。柳生宗厳は信綱から新陰流の印可を受け、後に柳生新陰流として徳川幕府の剣術指南役となる系譜を作った。
1577年頃没、享年六十九と伝わる。
第三章 — 年表
第四章 — 名言
“我が剣、無形にして万物を切る”
第五章 — 逸話
[A]柳生宗厳との出会い
1565年頃、信綱が大和を巡歴中に柳生宗厳(石舟斎)と出会った。宗厳は当時すでに著名な剣士だったが、信綱との試合に三度連続で敗れた。宗厳は弟子入りを請い、信綱は彼に新陰流を授けた。柳生宗厳から柳生宗矩へと続く柳生新陰流の系譜は、信綱がこの一日の出会いで作ったものである。
第六章 — 影響と遺産
信綱の新陰流は戦国期の剣術理論を最も体系化した流派として、後の日本剣道の主要な源流となった。直接の弟子・柳生宗厳から柳生宗矩への系譜は徳川幕府の公式剣術となり、新陰流系の諸流派は江戸期を通じて武家剣術の中心であり続けた。剣豪将軍と呼ばれた足利義輝の剣才も信綱の指導に拠るとされ、戦国末期の武家文化における剣の位置を決定づけた人物として現代にも研究され続けている。
第七章 — 主な功績
- [01]新陰流の開祖(1560年頃)
- [02]廻国修行(1563年以降)
- [03]将軍足利義輝への剣術指南
- [04]柳生宗厳への新陰流印可(1565)
- [05]新陰流兵法目録
第八章 — 参考資料
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
新陰流兵法目録
上泉信綱
信綱が弟子に与えた印可状・兵法書、新陰流の理論的核心
- 学術文献
日本剣豪譚
戸部新十郎 / 中央公論新社(中公文庫)
戦国剣豪研究の代表的著作、信綱の章を含む
- 公的所蔵
おすすめ書籍
第十章 — 関連レポート
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