保管文書
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資料No. SA-0018

侍アーカイブ

加藤清正

Katō Kiyomasa

肥後熊本藩主、築城の名手

第一章 — 人物概要

氏名加藤清正
英名Katō Kiyomasa
出身日本
生没年1562–1611
性別男性
世紀16世紀
家・役職大名
肩書肥後熊本藩主、築城の名手

第二章 — 経歴

1562年、尾張国に生まれた。秀吉の遠縁にあたり、若くして仕官した。1583年の賤ヶ岳の戦いで七本槍の一人として柴田勝家の前線を破り、武名を上げた。

1590年代の朝鮮出兵では右翼軍を率い、戦の合間に虎を狩ったことから「虎狩りの清正」と呼ばれる。秀吉の死後は関ヶ原で家康側に付き、肥後熊本五十二万石を確保した。1601年から熊本城の造営を開始する。

十年がかりの工事は当時の城郭建築の到達点であった。屏風のように反り立つ石垣、底に偽の段差のある堀、隠し井戸、本丸地下の通路網。1877年の西南戦争で薩摩軍が熊本城を五十五日攻め続けたが、ついに落とすことはできなかった。

1611年、清正は熊本で急死する。毒殺の疑いも語られたが、決定的な証拠は今も出ていない。

第三章 — 年表

1562尾張国に生誕
1583賤ヶ岳七本槍に名を連ねる
1592朝鮮出兵で「虎狩り」の異名を得る
1600関ヶ原で家康側に付く
1601熊本城の造営を開始
1607熊本城天守完成
1611熊本で急死

第四章 — 名言

石垣を子孫が三百年後に守るつもりで築け

第五章 — 逸話

[A]武者返しの石垣

清正は熊本城の石垣を「武者返し」と呼ばれる独自の形に設計した。底は緩やかな勾配、上に行くほど反り立ち、最後はほぼ垂直となる。よじ登る兵が頂上付近で手がかりを失う構造である。この技法は今も日本の城郭学で清正の名と共に教えられる。1877年の籠城戦も2016年の熊本地震も、城本体は耐え抜いた。

第六章 — 影響と遺産

熊本城は今も日本三名城の一つであり、最も研究された武士の軍事建築である。清正はまた石田三成との生涯にわたる対立、秀吉の重臣としての立場、そして徳川が豊臣家に決定的な手を打つ直前に没した不可解な経緯でも記憶される。

第七章 — 主な功績

  • [01]賤ヶ岳の戦い(1583)
  • [02]朝鮮出兵(1592–1597)
  • [03]熊本城築城(1601–1607)
  • [04]武者返しの石垣

第八章 — 参考資料

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