役割別
将軍
鎌倉から江戸まで、形式上の天皇のもとで国家の実権を握った武家政権の頂点。
収録人物 4 名
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関ヶ原——なぜ徳川は一日で日本を手に入れたのか
1600年10月21日、美濃の盆地に約八万ずつの軍勢が霧の中で対峙した。日没までに、その後250年の日本を決めた戦いは終わっていた。
大坂・天王寺口の最後の突撃——真田信繁の最期
1615年5月のある午後、三千の赤備え騎馬が日本最大の軍勢に突撃し、家康をあと一歩で追い詰めた。すでに伝説だった男が、その日に成したことは、以後すべての「敗者の英雄」の原型となった。
服部半蔵と忍者の真実
歴史上最も有名な忍者は、おそらく忍者ではなかった。彼は伊賀という村出身の特殊兵を率いる、ごく普通の武士の指揮官であり、その事実は伝説の読み方を根本から変える。
関ヶ原を裏切った男たち——その後の運命
西軍の主要武将四人が、その日のうちに東軍へ寝返った。その三人は十年以内に没落した。残る一人は二百六十年後、徳川を倒す側の祖となった。
鎌倉vs江戸——二つの武家政権の構造と寿命
日本には三つの幕府があった。重要なのは二つである。表面的には似ている(武士による世襲の軍事政権)が、その構造の違いが寿命を、終わり方を、そして大名制度から明治維新までを決めた。
なぜ最後の将軍は権力を返したか——徳川慶喜と大政奉還
1867年11月9日、第十五代徳川将軍は政権を朝廷に返上した。新たな立憲国家で徳川家が主要な構成員として残ると信じていた。彼はその点で誤算した。他のすべてでは正しかった。
なぜ鎌倉だったのか——頼朝が「永続する武家政権」を発明した
1192年に源頼朝が将軍の称号を取った時、彼は国家権力を持った最初の武士ではなかった。彼が初めてだったのは、その職を恒常的なものにしたことである。1180年から1199年までの彼の選択が、その後676年の日本の運用基盤を定めた。
尼将軍——北条政子が公式に統治を許されぬまま国を運営した二十六年
1199年から1225年まで、北条政子は鎌倉幕府を実質的に運営した。最初は息子たちを通じて、後には自身の名で「尼将軍」として。彼女は日本武家史における女性政治権力の創始的人物である。
二人の天皇——足利尊氏が日本を六十年分裂させた決定
1336年、自身の幕府を正統化するため、足利尊氏は京都に対立天皇を擁立した。元の天皇は吉野に逃げた。日本はその後五十六年間、対立する二つの皇統を抱えた。その分裂の政治的構造が、戦国に至る国の形を決めた。
五稜郭——最後の侍共和国が死んだ場所
1869年5月、北海道函館の星型の城塞で、土方歳三と七千の旧幕府軍が敗北した。日本最初で最後の共和国は七か月の寿命だった。
直江状——一通の手紙が関ヶ原を呼んだ
1600年4月、上杉景勝の重臣・直江兼続は徳川家康に十六か条の挑戦状を送り付けた。返書は数か月以内に七十二万石の同盟軍を関ヶ原に呼び寄せ、日本史最大の合戦の引き金を引いた。
将軍家剣術指南——柳生新陰流はいかに国家の道となったか
1605年、柳生宗矩は二代将軍徳川秀忠の剣術指南役に就任した。父・宗厳から継いだ柳生新陰流が徳川幕府の公式剣術となった瞬間である。一流派が国家の道となる稀有な事例の背景を読む。



