役割別
軍師
大名家を一個の国家に変えた軍政の参謀——戦争と統治の設計者。
収録人物 4 名
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大坂・天王寺口の最後の突撃——真田信繁の最期
1615年5月のある午後、三千の赤備え騎馬が日本最大の軍勢に突撃し、家康をあと一歩で追い詰めた。すでに伝説だった男が、その日に成したことは、以後すべての「敗者の英雄」の原型となった。
服部半蔵と忍者の真実
歴史上最も有名な忍者は、おそらく忍者ではなかった。彼は伊賀という村出身の特殊兵を率いる、ごく普通の武士の指揮官であり、その事実は伝説の読み方を根本から変える。
戦略は劇場である——なぜ秀吉は最高の軍師を中央から遠ざけたか
黒田官兵衛は戦が起こる前に戦の結末を読めた。秀吉は彼を恐れすぎたあまり、功績に見合わぬ九州の小領に減封した。その判断が戦国屈指の異色の軍師の生涯を形作った。
千早城——三百で十万を釘付けにした男
1333年春、楠木正成は山岳の小城を三百対十万の戦力差で守り抜いた。三か月以上の籠城が鎌倉幕府の財政を破綻させ、各地の反乱を引き起こし、百四十八年続いた北条政権を倒した。
伝説より長く生きた兄——なぜ真田信之は九十二まで生きたのか
真田信繁(幸村)は1615年、大坂で英雄として死んだ。兄・信之は関ヶ原で徳川側に付いた。弟より四十三年長く生き、明治まで続く家を築いた。この対比は武士の忠誠が実際に何を要求するかを語る。
二人の天皇——足利尊氏が日本を六十年分裂させた決定
1336年、自身の幕府を正統化するため、足利尊氏は京都に対立天皇を擁立した。元の天皇は吉野に逃げた。日本はその後五十六年間、対立する二つの皇統を抱えた。その分裂の政治的構造が、戦国に至る国の形を決めた。
黒田家からの退去——又兵衛はなぜ浪人になったのか
1611年、後藤又兵衛は仕えていた筑前福岡藩の黒田家を退去し、浪人となった。長政との関係悪化が直接の原因だが、武士社会の慣行を破った代償として奉公構を発令され、十年近く各地を流浪することになった。
道明寺の戦い——後藤又兵衛は幸村の前日に死んだ
1615年5月6日、大坂夏の陣の前哨戦・道明寺の戦いで後藤又兵衛は戦死した。徳川軍三万に対し、又兵衛勢二千で半日持ちこたえた末の最期。真田幸村が天王寺口で戦死する前日のことだった。
大坂浪人衆五人衆——なぜ秀頼は浪人を集めたのか
1614年の大坂冬の陣を控えた豊臣秀頼は、関ヶ原で敗れた西軍系の浪人を大坂城に大量招集した。後藤又兵衛・真田幸村・毛利勝永・明石全登・長宗我部盛親の五人を中核とする浪人衆は、十万を超える規模となった。



