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資料No. SA-0064

侍アーカイブ

福島正則

Fukushima Masanori

安芸広島藩四十九万八千石初代藩主、後に信濃高井野四万五千石

福島正則

第一章 — 人物概要

氏名福島正則
英名Fukushima Masanori
出身日本
生没年1561–1624
性別男性
世紀16世紀
家・役職大名
肩書安芸広島藩四十九万八千石初代藩主、後に信濃高井野四万五千石

第二章 — 経歴

1561年(永禄四年)、尾張国海東郡二ツ寺村(現在の愛知県あま市)で桶屋の子として生まれる。母が秀吉の母・大政所の従姉妹という縁で、幼少期から羽柴秀吉に仕えた。1583年(天正十一年)の賤ヶ岳の戦いで、加藤清正(本サイト id 18)ら六人と共に一番槍の功名を挙げ、『賤ヶ岳七本槍』の筆頭に数えられた。

以後、秀吉の主要な合戦のほぼ全てに参戦。1585年に伊予今治十一万石、1595年に尾張清洲二十万石を与えられた。1600年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に付き、西軍への先制攻撃で決定的な役割を果たした。石田三成との個人的な激しい対立が、豊臣恩顧の大名の多くを東軍に付ける流れを作った。

戦後、家康により安芸広島四十九万八千石に加増転封された。しかし1619年(元和五年)、広島城の無断修築を理由に幕府により改易され、信濃国高井野四万五千石に転封された。江戸期における豊臣恩顧の大名改易の代表例となった。1624年(寛永元年)、高井野で没した。

享年六十四。

第三章 — 年表

1561尾張国海東郡に生誕、羽柴秀吉に仕える
1583賤ヶ岳の戦い、『七本槍』の一人
1585伊予今治十一万石
1595尾張清洲二十万石
1600関ヶ原の戦い、東軍先鋒
1601安芸広島四十九万八千石
1619広島城無断修築により改易、信濃高井野四万五千石
1624高井野にて没、享年六十四

第四章 — 名言

太閤の御恩は忘るまじ。されど時世は変はりぬ。

-- 正則の晩年の述懐として伝わる(趣旨)

第五章 — 逸話

[A]関ヶ原で三成を撃った男

関ヶ原の戦いにおける正則の役割は、単なる東軍先鋒に留まらない。石田三成との個人的な対立が、豊臣恩顧の大名の多くを東軍に引き込む政治的原動力となった。1599年、三成が徳川家康により失脚に追い込まれた際、加藤清正・黒田長政・浅野幸長ら七将による三成襲撃事件が発生。

正則はこの七将の中核だった。翌年の関ヶ原本戦では、東軍先鋒として西軍中核部隊に真っ先に攻めかかり、戦況を東軍優位に導いた。豊臣恩顧の武将が豊臣家の重臣・三成を破ることで徳川家康の天下取りが成立するという構図は、正則の三成への敵意なくしては成立し得なかった。

第六章 — 影響と遺産

正則の生涯は、秀吉子飼いの武将が徳川政権の到来と共に淘汰されていく過程を象徴する。1583年の賤ヶ岳での若き功名から始まった栄光は、1619年の広島改易で終わった。豊臣恩顧の五十万石級大名を、平時に、大坂の陣後の平和期に改易するという徳川幕府の判断は、以後の外様大名統制の前例となった。

広島城の石垣修築は幕府の武家諸法度違反という形式的理由だったが、実質は豊臣恩顧の大名を減封・改易する政策の一環と評価される。1624年の高井野での寂しい死は、清正(1611年病死)・黒田長政(1623年病死)ら同世代の豊臣恩顧武将の最期と併せて、戦国終焉と徳川支配確立の一つの節目を刻んだ。

広島城本丸には正則の遺構が残り、長野県高山村(旧高井野)には正則の墓所が現存する。

第七章 — 主な功績

  • [01]賤ヶ岳七本槍(1583)
  • [02]伊予今治藩・尾張清洲藩・安芸広島藩の藩主歴任
  • [03]関ヶ原東軍先鋒(1600)
  • [04]広島城改修と修築(改易の原因)
  • [05]豊臣恩顧の武将から徳川治世下の大名への転換の代表例

第八章 — 参考資料

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    福島太夫殿御事

    江戸期成立

    福島家の家譜、正則の生涯を伝える

  • 学術文献

    福島正則

    福尾猛市郎 / 吉川弘文館(人物叢書)

    現代の正則研究の代表的伝記

  • 公的所蔵

    広島城

    広島県広島市中区

    正則が改修した城、現在の広島城の基礎を築く

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