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関ヶ原の東軍先鋒——正則はなぜ豊臣恩顧でありながら家康に付いたか

1600年10月21日、関ヶ原。豊臣恩顧の武将・福島正則は徳川家康率いる東軍の先鋒として、豊臣家の重臣・石田三成に真っ先に攻めかかった。この構造の中に、豊臣政権の終焉が既に組み込まれていた。

福島正則関ヶ原石田三成

1600年10月21日(慶長五年九月十五日)、美濃国関ヶ原。徳川家康率いる東軍七万四千と石田三成率いる西軍八万二千が対峙した。東軍の先陣を切ったのは、豊臣秀吉の子飼い武将・福島正則だった。

三十九歳。豊臣家の家臣であるはずの正則が、豊臣家の重臣・三成に真っ先に攻めかかるという逆説の構造が、この日の関ヶ原に既に組み込まれていた。

1599年、七将による三成襲撃事件

正則と三成の対立は関ヶ原の前年、1599年の閏3月に決定的となった。豊臣秀吉が前年に没し、政権内部で石田三成らの奉行衆と加藤清正・福島正則らの武功派の対立が激化。

1599年閏3月、三成が伏見の徳川家康に襲撃されそうになる事件が起きた。襲撃側の主導は加藤清正・福島正則・黒田長政・浅野幸長・池田輝政・細川忠興・加藤嘉明の七将。

徳川家康の仲裁で事件は収束したが、三成は失脚し佐和山城に退去した。以後、七将の中核である正則は事実上の反三成派の中心人物となった。

豊臣恩顧の武将が三成を敵とした構造

1600年の関ヶ原で正則が東軍に付いたのは、単純な家康支持ではない。むしろ『豊臣家を三成から守る』という自己認識に基づく参戦だった。清正・浅野幸長・黒田長政ら他の豊臣恩顧の武将たちも同様の論理で東軍に加担した。

この『豊臣恩顧の武将が豊臣政権の中心・三成を敵とする』という構造が、家康の天下取りを可能にした。関ヶ原本戦で正則は東軍先鋒として西軍の宇喜多秀家隊に真っ先に突撃、東軍優位の流れを作った。

戦後の広島加増。束の間の栄光

関ヶ原戦後、正則は徳川家康により尾張清洲二十万石から安芸広島四十九万八千石へ加増転封された。関ヶ原の功名としては最大級の処遇だった。しかしこの加増は同時に、正則を徳川政権下の外様大名として位置付ける措置でもあった。

豊臣恩顧の武将としての正則の栄光の絶頂は、皮肉にも、豊臣家を弱体化させた自らの働きの結果として与えられたものだった。この構造は正則の晩年、1619年の広島改易まで、以後十九年間の運命を規定することになる。

"正則、東軍の一番先陣にて西軍に突入す。"
関原軍記大成(趣旨)

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    関原軍記大成

    江戸期成立

    関ヶ原の戦いの詳細を伝える編纂史料

  • 学術文献

    福島正則

    福尾猛市郎 / 吉川弘文館(人物叢書)

    正則の関ヶ原における役割を実証的に検討

  • 公的所蔵

    関ヶ原町歴史民俗学習館

    岐阜県関ヶ原町

    関ヶ原合戦地隣接、関連資料所蔵

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第十章 — 関連レポート

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