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広島城改易——1619年、豊臣恩顧の最大大名はなぜ潰されたか

1619年6月、幕府は福島正則を広島四十九万石から信濃高井野四万五千石へ改易した。理由は広島城の無断修築。しかし本質は、大坂の陣後の平和期における豊臣恩顧の大名淘汰だった。

福島正則広島改易武家諸法度

1619年(元和五年)6月、江戸城。徳川幕府は福島正則の広島城改易を正式に決定した。安芸・備後二か国四十九万八千石から、信濃国高井野四万五千石への転封という、実質的な十分の一への減封である。

理由は前年、正則が広島城の石垣を幕府の許可なく修築したという武家諸法度違反。だが本質は、大坂の陣(1615)後の平和期における豊臣恩顧の大名淘汰の政策だった。

武家諸法度の意味

1615年6月、豊臣家滅亡の直後、徳川幕府は『武家諸法度』十三条を発布した。第六条は『諸国の居城の修補は必ず言上すべし。まして新規の構営はこれを固く禁ずる』と規定。

城の修築には幕府の許可が必要と明文化した。正則は1618年、広島城の石垣を無断で修築した。1619年3月、幕府が咎めると、正則は謝罪し修築部分の破却を命じられたが、破却が不十分と再度追及され、最終的に改易処分となった。

『無断修築』は本質か形式か

現代の研究では、広島城の無断修築は改易の形式的理由に過ぎず、本質は徳川幕府による豊臣恩顧の大名淘汰の政策と解釈される。1615年の大坂の陣で豊臣家が完全に滅亡した後、幕府は豊臣恩顧の外様大名を段階的に減封・改易する方針を取った。

加藤清正の子・忠広の熊本改易(1632)、加藤嘉明の子・明成の会津改易(1643)など、正則以後も豊臣恩顧の名門の改易が続く。正則の広島改易は、この政策の最初期の代表例となった。

高井野での五年

1619年8月、正則は信濃国高井野(現在の長野県上高井郡高山村)に転封された。五十八歳。かつて四十九万石の大名だった男は、山間の四万五千石の小領で最後の五年を過ごした。

1624年(寛永元年)7月、高井野で没した。享年六十四。加藤清正(1611年病死、五十歳)、黒田長政(1623年病死、五十六歳)ら同世代の豊臣恩顧武将の相次ぐ死は、戦国末期を戦った世代の交代を象徴した。

長野県高山村には正則の墓所が現存し、江戸期を通じて訪れる者が絶えなかった。豊臣秀吉子飼いの武将としての栄光と、徳川政権下の外様大名としての凋落、両方を体現した人物として、江戸期の武家社会に長く記憶され続けた。

"正則、広島の城を修めしこと、法度に背く。改易するを以て諭す。"
徳川実紀(趣旨)

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    徳川実紀

    江戸幕府編纂

    広島改易の経緯を伝える幕府側史料

  • 学術文献

    福島正則

    福尾猛市郎 / 吉川弘文館(人物叢書)

    改易の政治的意味を実証的に検討

  • 公的所蔵

    広島城

    広島県広島市中区

    改易の原因となった城

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第十章 — 関連レポート

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