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賤ヶ岳七本槍——1583年、二十二歳の正則が名を上げた日

1583年4月21日、賤ヶ岳。若き福島正則は加藤清正・脇坂安治ら七人と共に一番槍の功名を挙げ、秀吉子飼いの武将としての地位を確立した。『七本槍』の誕生を辿る。

福島正則賤ヶ岳七本槍

1583年(天正十一年)4月21日、近江国賤ヶ岳(現在の滋賀県長浜市)。柴田勝家軍と羽柴秀吉軍の決戦の日。秀吉軍の先鋒隊の中に、まだ若い福島正則の姿があった。数え二十三歳、秀吉の家臣として初めての大合戦だった。

この日、正則は敵将・拝郷家嘉の首を挙げ、加藤清正・脇坂安治・平野長泰・糟屋武則・片桐且元・加藤嘉明の六人と共に『一番槍の七人』と称されることになる。

本能寺後の政局と賤ヶ岳

1582年6月の本能寺の変で信長が横死した後、織田家中では羽柴秀吉と柴田勝家の対立が急速に激化した。1583年4月、両者はついに賤ヶ岳で決戦となる。秀吉軍は美濃大垣から昼夜兼行で北近江に急行、勝家軍の側面を突いた。

この急襲戦の先鋒として若い福島正則ら秀吉子飼いの武将たちが送り込まれた。彼らの若さと武勇が、勝家軍を破る決定打となった。

『七本槍』の成立

『賤ヶ岳七本槍』の呼称自体は、賤ヶ岳直後ではなく、後に成立した文芸的評価である。当日一番槍の功を挙げた武将は実際には九人前後だったが、後世の物語化の中で七人に整理された。

福島正則、加藤清正、脇坂安治、平野長泰、糟屋武則、片桐且元、加藤嘉明。この七人はいずれも秀吉子飼いの若手で、以後の秀吉政権の主要な武将として重要な役職に就いていく。

『七本槍』は秀吉の家臣団形成における画期的事件として、後世に語り継がれた。

以後の栄光への出発点

賤ヶ岳の功名により、正則は秀吉から五千石を与えられ、以後急速に加増された。1585年に伊予今治十一万石、1595年に尾張清洲二十万石。若干二十歳前後の一介の家臣から、十年余で二十万石の大名にまで駆け上った。

秀吉子飼いの武将としての栄光の起点が、1583年4月21日の賤ヶ岳の一番槍にあった。以後三十六年、正則の生涯は秀吉恩顧の武将としての運命に貫かれることになる。最後の広島改易まで。

"正則、拝郷家嘉を討ち取る。一番槍の功名なり。"
信長公記の趣旨

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    信長公記

    太田牛一

    賤ヶ岳の戦いを含む秀吉期の一次史料

  • 学術文献

    福島正則

    福尾猛市郎 / 吉川弘文館(人物叢書)

    賤ヶ岳七本槍の成立を実証的に検討

  • 公的所蔵

    広島城

    広島県広島市中区

    正則が改修した城

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第十章 — 関連レポート

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