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資料No. SA-0078

侍アーカイブ

斎藤道三

Saitō Dōsan

美濃の戦国大名

第一章 — 人物概要

氏名斎藤道三
英名Saitō Dōsan
出身日本
生没年1494–1556
性別男性
世紀16世紀
家・役職大名
肩書美濃の戦国大名

第二章 — 経歴

1494年(明応三年)頃の生まれと伝わるが、生年には諸説ある。京の油商人から身を起こし、一代で美濃一国を奪い取ったとされる下剋上の典型として知られる。ただし近年の研究では、この国盗りは道三一代ではなく、父・長井新左衛門尉とあわせた二代にわたる事業だった可能性が高いとされる。

道三は美濃守護・土岐頼芸に仕えて頭角を現し、やがて主家を追放して美濃の国主となった。その謀略の凄まじさから『美濃のマムシ』と呼ばれた。1548年頃、娘・帰蝶(濃姫)を尾張の織田信長(本サイト id 1)に嫁がせて同盟を結ぶ。1553年(天文二十二年)の正徳寺の会見では、世に『うつけ』と評された若き信長と対面し、その非凡な器量を見抜いたと伝わる。

しかし晩年、家督を譲った実子・義龍と対立した。1556年(弘治二年)4月、長良川の戦いで義龍の大軍に敗れ、討死した。享年六十三。父を討った義龍の刃が、下剋上で成り上がった梟雄の生涯を終わらせた。娘婿の信長は後に美濃を制し、天下統一への道を歩む。

第三章 — 年表

1494この頃、生まれると伝わる
1527父の代からの美濃進出を継ぐ
1542土岐頼芸を追放し美濃を掌握
1548娘・帰蝶を織田信長に嫁がせる
1553正徳寺で信長と会見
1556長良川の戦いで義龍に敗れ討死、享年六十三

第四章 — 名言

わが子らは、いずれあの婿殿の門外に馬を繋ぐことになろう。口惜しくも、頼もしき男よ。

-- 正徳寺の会見の後、信長を評した道三の言葉として伝わる(趣旨)

第五章 — 逸話

[A]『美濃のマムシ』——下剋上の実像

道三は長く、一介の油売りから身を起こして一代で美濃一国を奪ったとされ、下剋上の代名詞として語られてきた。だが近年の研究は、この国盗りが道三一代の偉業ではなく、父・長井新左衛門尉と道三の二代にわたって進められた事業だった可能性が高いことを明らかにしている。

父が美濃で地盤を築き、道三がそれを受け継いで主家と守護を次々と排除し、国主にまで登りつめた。とはいえ、主家を実力で乗り越えて一国を手にしたという事実は変わらない。その冷徹な謀略ゆえに、道三は『美濃のマムシ』と恐れられた。

この呼び名は、旧来の秩序が実力の前に崩れていく戦国という時代そのものを象徴している。

第六章 — 影響と遺産

斎藤道三は、実力さえあれば出自を問わず一国の主となれるという、戦国下剋上の時代精神を最も鮮烈に体現した人物である。近年の研究で国盗りが父子二代の事業だったと見直されてもなお、旧主を排して美濃を制した事実は、身分秩序が崩壊した時代の象徴であり続けている。

道三の最大の遺産は、娘婿・織田信長(本サイト id 1)を見出したことにあるとも言える。正徳寺の会見で『うつけ』信長の非凡を見抜いた道三の眼力は、後の天下統一の伏線となった。道三の死後、美濃は実子・義龍、孫・龍興と受け継がれたが、やがて信長に奪われ、信長の天下布武の拠点となる。

父を長良川で討った義龍も、その数年後に病没した。梟雄が築いた美濃は、皮肉にも道三が見込んだ婿の手で天下取りの礎となった。岐阜市の常在寺には道三の肖像画が伝わり、その鋭い眼光を今に残している。

第七章 — 主な功績

  • [01]美濃の掌握と土岐氏の追放
  • [02]分国支配の確立
  • [03]織田信長との同盟(帰蝶の婚姻)
  • [04]稲葉山城(後の岐阜城)の整備
  • [05]戦国下剋上の体現

第八章 — 参考資料

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    美濃国諸旧記

    道三の国盗りの経緯を伝える軍記

  • 学術文献

    斎藤道三と美濃の戦国時代

    横山住雄 / 戎光祥出版

    二代国盗り説など現代の道三研究を反映

  • 公的所蔵

    常在寺

    岐阜県岐阜市

    道三の菩提寺、肖像画を所蔵

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