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正徳寺の会見——1553年、道三は『うつけ』の非凡を見抜いた
1553年、斎藤道三は娘婿・織田信長と初めて対面した。世に『尾張のうつけ』と嘲られた若者を、道三はひと目で天下の器と見抜く。舅の眼力が、後の天下人を歴史の表舞台へと押し出した。
1553年(天文二十二年)、尾張と美濃の境に近い正徳寺(現在の愛知県一宮市一帯)。斎藤道三は、娘・帰蝶を嫁がせた婿・織田信長(本サイト id 1)と初めて対面した。
信長は当時、奇矯な振る舞いから『尾張のうつけ』と嘲られていた。道三は寺の物陰から、供を連れて現れる信長の様子をひそかにうかがったと伝わる。その目に映ったのは、噂とはまるで違う若者の姿だった。
うつけという評判
信長は若い頃、湯帷子をだらしなく着崩し、瓜をかじりながら町を歩くような奇行で知られた。家中でも将来を危ぶむ声が絶えなかった。道三は、そんな婿の実像を自らの目で確かめようとした。
娘を嫁がせた相手が本当に『うつけ』ならば、美濃の安全にも関わる。会見は、舅による婿の品定めの場でもあった。
隊列に見た器量
会見の場に現れた信長は、それまでの評判を裏切る堂々たる装いだったと『信長公記』は伝える。従える兵の鉄砲や長槍の整然とした装備に、道三は舌を巻いた。奇矯な振る舞いは世を欺く仮の姿であり、その内には並外れた才略が潜んでいる。
道三はそう見抜いた。会見を終えた道三は、供の者に婿への正直な評価を漏らしたという。
門外に馬を繋ぐ
道三は帰り道、家臣にこう語ったと伝わる。わが子らはいずれ、あの婿殿の門外に馬を繋ぐことになろう、と。自分の息子たちが信長の家来として仕える日が来る、という意味である。
舅が婿に完敗を認めた言葉だった。この慧眼は、後に美濃が信長の手に渡り天下布武の拠点となる未来を、奇しくも言い当てていた。道三はこの婿に、自らを超える者の姿を見たのである。
"わが子らは、いずれあの婿殿の門外に馬を繋ぐことになろう。口惜しくも、頼もしき男よ。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
信長公記
太田牛一
正徳寺の会見を記す一次史料
- 学術文献
斎藤道三と美濃の戦国時代
横山住雄 / 戎光祥出版
道三と信長の関係を検討
- 公的所蔵
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