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資料No. SA-0066

侍アーカイブ

島津義弘

Shimazu Yoshihiro

島津家十七代当主・薩摩国大隅国日向国大名

島津義弘

第一章 — 人物概要

氏名島津義弘
英名Shimazu Yoshihiro
出身日本
生没年1535–1619
性別男性
世紀16世紀
家・役職大名
肩書島津家十七代当主・薩摩国大隅国日向国大名

第二章 — 経歴

1535年(天文四年)7月23日、薩摩国伊作城(現在の鹿児島県日置市)で島津貴久の次男として生まれる。幼名は又四郎、後に又七郎。長兄・義久が家督を継ぎ、義弘は薩摩統一と九州平定の実戦指揮を担う武将となった。1570年代、日向国の伊東氏との戦い、豊後国大友氏との戦い(1578年の耳川の戦いなど)を通じて九州の島津優位を確立した。

1587年(天正十五年)、豊臣秀吉の九州征伐に敗北して降伏、以後は豊臣政権下の島津家として存続を認められた。1592年から始まる文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では朝鮮半島南部で活動、1598年(慶長三年)10月の泗川の戦いで約七千の兵で明・朝鮮連合軍数万を撃退し、明軍から『鬼石曼子(グイシーマンズ、鬼のような島津の意)』と恐れられたと伝わる。

1600年10月21日の関ヶ原の戦いでは西軍として参陣、戦闘中は動かなかったが、東軍優勢が決定的となった後、少数の兵で敵中を突破する『捨て奸』戦法で薩摩へ帰還した稀有な事例を残した。この撤退戦で井伊直政(本サイト id 48)は銃創を負い、後に病死した。

戦後、島津家は西軍側でありながら唯一減封を免れ、薩摩・大隅・日向諸県郡七十七万石を安堵された。1619年(元和五年)7月21日、加治木の館で没した。享年八十五。

第三章 — 年表

1535薩摩国伊作城に生誕、島津貴久の次男
1578耳川の戦いで大友宗麟軍を破る
1587豊臣秀吉の九州征伐に降伏
1592文禄の役、朝鮮半島に出兵
1598泗川の戦い、明軍に『鬼石曼子』と恐れられる
1600関ヶ原の戦い、『捨て奸』で敵中突破し薩摩帰還
1619加治木にて没、享年八十五

第四章 — 名言

退くべき道は前にあり、後にあらず。

-- 義弘が関ヶ原の撤退時に述べたと伝わる(趣旨)

第五章 — 逸話

[A]『鬼石曼子』伝承の検討

明軍が義弘率いる薩摩兵を『鬼石曼子』と呼んで恐れたという伝承は、江戸期以降の島津家関連史料で広く語られる。しかし同時代の明側の一次史料でこの呼称を明示的に確認するのは困難で、後世の日本側での島津家顕彰の中で形成された可能性が指摘されている。

ただし1598年10月の泗川の戦いで、義弘の薩摩兵約七千が明・朝鮮連合軍数万を撃退した事実自体は、日本側・朝鮮側双方の複数史料で裏付けられる。伝承の呼称の真偽を超えて、朝鮮南部における島津義弘の実戦能力の高さは、当時から広く認識されていたと考えられる。

第六章 — 影響と遺産

義弘は西軍側でありながら唯一減封を免れた稀有な戦国大名として、島津家の江戸期以降の存続を可能にした。関ヶ原後の島津家との交渉で、徳川家康は最終的に減封を諦めた。薩摩藩七十七万石は江戸期を通じて外様大名の中でも最大級の存在として存続し、幕末には西郷隆盛(本サイト id 21)・大久保利通(本サイト id 26)ら明治維新の中核人物を輩出することになる。

関ヶ原の『捨て奸』戦法。後衛が身を挺して時間を稼ぎ、主将を逃がす。は日本軍事史における特異な撤退戦の例として、以後の軍学書で研究対象となった。鹿児島県姶良市加治木町に義弘の墓所があり、加治木島津家関係資料は現代の島津義弘研究の中核をなす。

第七章 — 主な功績

  • [01]九州統一戦(1570年代-1580年代)
  • [02]文禄・慶長の役(1592-1598)
  • [03]泗川の戦い(1598)
  • [04]関ヶ原の『捨て奸』撤退戦(1600)
  • [05]薩摩藩七十七万石の存続確保

第八章 — 参考資料

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    島津家文書

    東京大学史料編纂所

    島津家伝来文書の校訂版、義弘の書状を含む一次史料群

  • 学術文献

    島津義弘の軍功

    新名一仁 / 戎光祥出版

    現代の島津義弘研究の代表的著作、朝鮮の役と関ヶ原を実証的に検討

  • 公的所蔵

    尚古集成館

    鹿児島県鹿児島市

    島津家伝来品を所蔵する博物館、義弘関連資料を含む

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