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泗川の戦い——1598年、七千の薩摩兵が明軍数万を撃退した日

1598年10月1日、朝鮮南部・泗川。島津義弘率いる薩摩兵約七千が、明・朝鮮連合軍数万の攻撃を受けた。半日の戦闘の後、連合軍は数千の死者を出して撤退。朝鮮の役全体の中でも最大級の勝利を辿る。

島津義弘泗川朝鮮の役

1598年10月1日(慶長三年十月一日)、朝鮮半島南部・泗川(現在の韓国慶尚南道泗川市)。島津義弘率いる薩摩兵約七千が守る泗川新城に、明軍の董一元率いる約二万、朝鮮軍数千を含む連合軍が攻撃を仕掛けた。

義弘六十三歳。朝鮮の役の後半、既に豊臣秀吉が死去し(8月18日、大坂)撤退が決定していた時期の戦闘だった。

泗川新城の位置

泗川は朝鮮南部・順天倭城(小西行長)と釜山(諸大名)を結ぶ交通の要衝で、島津軍はここに要塞化された新城を築いていた。海に面した立地で、退路として海路による帰国が可能だった。

義弘は明軍の攻撃を予期して兵を集中させ、少数精鋭による籠城戦の準備を整えていた。約七千という兵力は、当時の朝鮮南部の日本軍の中では中規模だった。

戦闘の経過

10月1日午前、明軍が新城の外郭に攻撃を開始。城壁への突撃と鉄砲・大砲による砲撃を組み合わせた大規模攻撃だった。義弘は火薬の集中運用と鉄砲隊の陣地防御で応戦、明軍の突撃を撃退した。

午後には島津軍が城門を開けて反撃、混乱する明軍を追撃した。半日の戦闘で明軍は数千の死者を出し、董一元は撤退した。島津軍の死者は数十から百人程度と伝わる。

『鬼石曼子』伝承の起源

この戦闘後、明軍から『鬼石曼子(グイシーマンズ、鬼のような島津の意)』の呼称が生まれたと江戸期以降の島津家史料は伝える。しかし同時代の明側の一次史料でこの呼称を直接確認するのは困難で、日本側での顕彰の中で形成された可能性が高い。

伝承の呼称の真偽を超えて、泗川の戦いで義弘が数万の敵に対して七千で勝利した事実自体は複数史料で裏付けられる。朝鮮の役全体を通じて日本側の勝利として記録された最大規模の戦闘の一つとなった。

"泗川新城、董一元来襲、義弘之を撃退す。"
島津家文書(趣旨)

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    島津家文書

    東京大学史料編纂所

    朝鮮の役に関する義弘の書状を含む一次史料

  • 学術文献

    島津義弘の軍功

    新名一仁 / 戎光祥出版

    泗川の戦いを実証的に検討

  • 公的所蔵

    尚古集成館

    鹿児島県鹿児島市

    島津家伝来品、朝鮮の役関連資料

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第十章 — 関連レポート

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