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『捨て奸』——1600年関ヶ原、義弘はいかに敵中を突破したか
1600年10月21日午後、関ヶ原。西軍の敗北が決定的となった時、島津義弘は少数の兵で敵中の中央突破を選んだ。後衛が身を挺して時間を稼ぐ『捨て奸』戦法で薩摩帰還を果たした稀有な撤退戦を辿る。
1600年10月21日(慶長五年九月十五日)午後、美濃国関ヶ原。開戦から約六時間、小早川秀秋の裏切りにより西軍の敗色は決定的となった。島津義弘率いる薩摩兵約千五百は、戦闘中はほぼ動かず布陣していたが、この時点で退路を絶たれた状態にあった。
周囲は東軍に完全に包囲されていた。義弘六十六歳、この場面での判断が『捨て奸』として日本軍事史に残ることになる。
退路の選択
通常、包囲された敗軍が取る選択は降伏か死である。義弘の選んだ第三の道は、東軍主力の中央を逆方向に突破して伊勢街道を南下、大坂・堺経由で薩摩へ帰還する敵中突破だった。
距離約六百キロ、途中で徳川方の諸大名の領地を通過する必要がある。成功の可能性は極めて低く、当時の武家の常識では非現実的な選択だった。
『捨て奸』戦法の実行
義弘の戦法は、後衛部隊が段階的に伏兵となり追撃者と交戦しながら全員戦死し、その間に本隊が距離を稼ぐという構造だった。『捨て奸(すてがまり)』と呼ばれる戦法である。
約千五百の島津軍のうち、大半が後衛として身を挺した。義弘本人と甥・豊久ら数十名の側近が本隊として突破を試みた。追撃した徳川軍の中には井伊直政(本サイト id 48)・本多忠勝ら徳川四天王が含まれ、直政は追撃中に薩摩兵の鉄砲弾を腿に受け、この銃創が原因で二年後に死去することになる。
薩摩帰還
義弘は伊勢街道を南下、大坂を経由して住吉から船で瀬戸内海を渡り、豊後日出(現在の大分県)に上陸、九州の陸路を経て薩摩へ帰還した。約十日間、九月十七日から九月末までの逃亡行だった。
同行者は途中で戦死・脱落し、薩摩到着時には義弘を含めて約八十名になっていたと伝わる。約千五百から八十名。生存率わずか五パーセント台の壮絶な撤退戦だった。この撤退戦の実行が、関ヶ原後の島津家の交渉における交渉力の源泉となる。
"退くべき道は前にあり、後にあらず。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
島津家文書
東京大学史料編纂所
関ヶ原とその撤退戦に関する一次史料
- 学術文献
島津義弘の軍功
新名一仁 / 戎光祥出版
『捨て奸』撤退戦の実相を実証的に検討
- 公的所蔵
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