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関ヶ原の後、なぜ島津家だけ減封を免れたか
1600年関ヶ原後、西軍側の大名は次々と改易・減封された。しかし島津家七十七万石は唯一減封を免れた。徳川家康との二年半の交渉の中で、義弘の中央突破が果たした役割を検証する。
1600年10月21日の関ヶ原の勝敗が決した後、徳川家康は西軍側の大名の処分に着手した。石田三成は処刑、宇喜多秀家は八丈島に流刑、長宗我部盛親は改易、毛利輝元は百二十万石から三十六万石へ大幅減封。
西軍側で本領を保持できた大名は極めて限定的だった。この中で、島津家は薩摩・大隅・日向諸県郡七十七万石をそのまま安堵された。西軍側で唯一の完全存続例である。
交渉の長期化
島津家の処分は関ヶ原直後には決まらず、以後二年半にわたる交渉が続いた。徳川方は当初、島津家の完全征伐または大幅減封を計画していた。しかし義弘の関ヶ原撤退戦で薩摩兵の戦闘能力が示されたこと、薩摩が本土から遠く実際の征伐に多大な兵力と時間を要すること、島津家が当主・義久を残して交渉に応じる姿勢を示したことなどが、徳川方の判断を変えた。
1602年12月、島津家の本領安堵が正式に決定した。
義弘の撤退戦が果たした役割
『捨て奸』撤退戦の政治的意義は、戦闘そのものの成功以上に、島津家が徳川方に『征伐困難な相手』と認識させた点にあった。徳川四天王の井伊直政に致命傷を負わせた事実は、徳川方に薩摩征伐の代償の大きさを予感させた。
撤退戦の異常な激烈さは、以後の島津-徳川交渉における島津側の交渉力を実質的に高めた。義弘個人の武将としての判断が、島津家全体の運命を決定したという意味で、稀有な事例である。
薩摩藩の江戸期と幕末への繋がり
関ヶ原で存続した薩摩藩七十七万石は、江戸期を通じて外様大名の中でも最大級の存在として続いた。江戸幕府は薩摩藩に対して常に警戒的で、参勤交代の負担・木曾川治水工事など経済的圧力を継続的にかけたが、藩の実力は削がれなかった。
この蓄積が幕末に爆発する。1868年の戊辰戦争で、薩摩藩は西郷隆盛(本サイト id 21)・大久保利通(本サイト id 26)を中軸として明治維新の中核となる。
義弘の1600年の撤退戦から数えて二百六十八年、島津家の存続が近代日本の誕生に直接繋がった。
"島津本領、悉く安堵す。二年半の交渉、この日に至る。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
島津家文書
東京大学史料編纂所
関ヶ原後の徳川-島津交渉の一次史料
- 学術文献
島津義弘の軍功
新名一仁 / 戎光祥出版
関ヶ原後の島津家存続を実証的に検討
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート