資料No. SA-0072
侍アーカイブ
今川義元
Imagawa Yoshimoto
駿河・遠江・三河守護大名
第一章 — 人物概要
| 氏名 | 今川義元 |
|---|---|
| 英名 | Imagawa Yoshimoto |
| 出身 | 日本 |
| 生没年 | 1519–1560 |
| 性別 | 男性 |
| 世紀 | 16世紀 |
| 家・役職 | 大名 |
| 肩書 | 駿河・遠江・三河守護大名 |
第二章 — 経歴
1519年(永正十六年)、駿河国の守護大名・今川氏親の子として生まれる。幼名は芳菊丸。家督相続の順位が低かったため幼くして仏門に入り、京都で禅を学んで栴岳承芳と名乗った。臨済僧・太原雪斎を師とした。1536年(天文五年)、兄の当主・氏輝が急死すると、異母兄・玄広恵探との家督争い(花倉の乱)に勝利し、還俗して今川義元と名乗った。
以後、雪斎を軍師兼執政として駿河・遠江を固め、西の三河へ勢力を広げた。1549年には松平氏を従属させ、その子・竹千代(後の徳川家康、本サイト id 3)を人質とした。1554年(天文二十三年)、武田信玄(本サイト id 5)・北条氏康と甲相駿三国同盟を結び、背後の憂いを断って東海最大の勢力を築いた。
『海道一の弓取り』と称された。1560年(永禄三年)5月19日、大軍を率いて尾張へ侵攻したが、桶狭間で織田信長(本サイト id 1)の奇襲を受け討死した。享年四十二。江戸期の軍記物は公家かぶれの暗君として戯画化したが、戦後の歴史学は分国法『今川仮名目録』の追加や検地を行った先進的な統治者として再評価している。
第三章 — 年表
第四章 — 名言
“背を固めずして前に進む者は、乱世に長らへず。”
第五章 — 逸話
[A]太原雪斎——義元を支えた禅僧軍師
義元の飛躍を語る上で、師にして軍師・太原雪斎の存在は欠かせない。雪斎は臨済僧でありながら、花倉の乱の勝利、三河経略、甲相駿三国同盟の外交と、義元の政治・軍事の中枢を担った。学僧の知略と外交手腕が、今川家を東海最大の勢力へ押し上げた。
1555年に雪斎が没すると、今川家の外交と軍略は次第に精彩を欠いていったとされる。その五年後の桶狭間の敗北は、雪斎という補佐役を失った今川家の弱体化を一因とする見方もある。義元の栄光と挫折の双方に、雪斎の影が色濃く落ちている。
第六章 — 影響と遺産
今川義元は、駿河・遠江・三河にまたがる一大版図を築いた戦国屈指の大名である。分国法の整備、検地、寄親寄子制による家臣団編成など、先進的な領国経営を行った。しかし1560年の桶狭間での敗死が、その評価を大きく変えた。無名だった織田信長(本サイト id 1)はこの勝利で天下取りへの道を開き、人質だった松平元康(徳川家康、本サイト id 3)は今川の支配を脱して独立した。
結果として義元は『信長と家康を世に出した敗者』として語られることになった。江戸期の軍記物は義元を公家趣味の暗君として戯画化したが、戦後の歴史学はこれを退け、優れた統治者・外交家として再評価している。駿府(現在の静岡市)は義元の時代に東国有数の文化都市となり、後に家康の隠居地ともなった。
臨済寺(静岡市葵区)は今川氏の菩提寺で、義元ゆかりの寺として現存する。
第七章 — 主な功績
- [01]花倉の乱の勝利と家督統一(1536)
- [02]甲相駿三国同盟の締結(1554)
- [03]分国法『今川仮名目録』の追加制定
- [04]駿河・遠江・三河の三国支配
- [05]駿府の文化都市化
第八章 — 参考資料
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
信長公記
太田牛一
桶狭間の戦いにおける義元の最期を記す一次史料
- 学術文献
今川義元
有光友學 / 吉川弘文館(人物叢書)
現代の義元研究の代表的伝記
- 公的所蔵
おすすめ書籍
第十章 — 関連レポート
SA-RPT
花倉の乱——1536年、僧侶から戦国大名へ転じた家督相続
1536年、今川氏輝の急死により今川家に家督争いが起きた。仏門にあった栴岳承芳は異母兄・玄広恵探を破り、還俗して今川義元と名乗った。禅僧から東海の大名への転身である。
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甲相駿三国同盟——1554年、義元が築いた東海の勢力均衡
1554年、今川義元は武田信玄・北条氏康と甲相駿三国同盟を結んだ。三家の婚姻による相互不可侵は、義元に背後の憂いなく西方の三河・尾張へ進出する余裕を与えた。東海の覇権の完成である。
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桶狭間——1560年、東海の覇者が尾張の田野に散った日
1560年5月19日、大軍を率いて尾張へ侵攻した今川義元は、桶狭間で織田信長の奇襲を受け討死した。享年四十二。東海の覇者の突然の死は、信長の飛躍と家康の独立を招き、戦国の勢力図を一変させた。







