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桶狭間——1560年、東海の覇者が尾張の田野に散った日
1560年5月19日、大軍を率いて尾張へ侵攻した今川義元は、桶狭間で織田信長の奇襲を受け討死した。享年四十二。東海の覇者の突然の死は、信長の飛躍と家康の独立を招き、戦国の勢力図を一変させた。
1560年(永禄三年)5月19日、尾張国桶狭間(現在の愛知県豊明市・名古屋市緑区一帯)。大軍を率いて尾張へ侵攻した今川義元は、豪雨の中を突いた織田信長(本サイト id 1)の奇襲を受けた。
本陣を急襲され、義元は乱戦の中で討ち取られた。享年四十二。東海に一大版図を築いた『海道一の弓取り』の、あまりに突然の最期だった。
尾張侵攻の目的
義元がなぜ大軍で尾張へ侵攻したかは、諸説ある。かつては上洛を目指したとされたが、戦後の歴史学は、まず尾張の織田領を併呑する領土戦だったとする見方が有力である。当時の信長は尾張統一を終えたばかりの新興勢力で、義元の版図と動員力は信長を大きく上回っていた。
義元にとって尾張攻略は、東海の覇権を西へ広げる自然な一手だった。
奇襲の一瞬
『信長公記』によれば、義元本隊が桶狭間の窪地で休息していたところへ、信長が寡兵で急襲したと伝わる。折からの豪雨が今川方の視界と警戒を奪ったとされる。総兵力では圧倒的に優勢だった今川軍だが、本陣が直接襲われたことで混乱に陥った。
義元は輿を捨てて応戦したが、乱戦の中で討たれた。わずか数時間の戦闘が、東海最大の大名の運命を決した。
敗死がもたらしたもの
義元の死は戦国の勢力図を一変させた。無名だった信長は一躍天下取りの道を歩み始める。人質だった松平元康(徳川家康、本サイト id 3)は今川の支配を脱して岡崎に独立し、後に信長と同盟して天下人へと至る。
今川家は義元の子・氏真の代に衰退し、やがて滅んだ。義元自身は江戸期の軍記に暗君として戯画化されたが、戦後の歴史学は分国法の整備や検地を行った優れた統治者として再評価している。
"海道一の弓取り、ここに斃る。されどその名、東海に永く残らん。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
信長公記
太田牛一
桶狭間の戦いと義元の最期を記す一次史料
- 学術文献
今川義元
有光友學 / 吉川弘文館(人物叢書)
桶狭間の戦いの実像を実証的に検討
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート