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甲相駿三国同盟——1554年、義元が築いた東海の勢力均衡
1554年、今川義元は武田信玄・北条氏康と甲相駿三国同盟を結んだ。三家の婚姻による相互不可侵は、義元に背後の憂いなく西方の三河・尾張へ進出する余裕を与えた。東海の覇権の完成である。
1554年(天文二十三年)、駿河・甲斐・相模の三国。今川義元・武田信玄(本サイト id 5)・北条氏康の三大名が、相互不可侵と婚姻による同盟を結んだ。世に甲相駿三国同盟という。
三家の当主がそれぞれの子女を嫁がせ合い、東海から関東にかけての勢力均衡を作り上げた。義元にとってこの同盟は、背後の武田・北条の脅威を除き、西方への進出に専念する道を開くものだった。
三国の思惑
武田信玄は信濃平定に、北条氏康は関東経営に、それぞれ主力を割く必要があった。三者はいずれも別方面での勢力拡大を望み、隣国との無用な消耗を避けたかった。義元の狙いは西の三河・尾張、信玄は北の信濃、氏康は東の関東。
三家の拡大方向が競合しないことが、同盟成立の前提となった。利害の一致が、戦国には珍しい大名間の長期同盟を可能にした。
太原雪斎の外交
この同盟の交渉を主導したのが、義元の師にして軍師・太原雪斎だった。雪斎は臨済僧としての人脈と学識を活かし、三家の間を周旋したと伝わる。婚姻同盟という形式は、当事者が裏切れば一族の子女を危険に晒す。
血縁を担保とすることで、三国は互いの背信を抑止した。雪斎の外交手腕が、義元の版図経営を軍事と外交の両面から支えた。
西進の自由
同盟により東と北の憂いを断った義元は、西方の三河支配を固めた。松平氏を従属させ、当主の子・竹千代(後の徳川家康、本サイト id 3)を人質として駿府に置いた。義元の版図は駿河・遠江・三河の三国に及び、動員兵力は東海随一となった。
三国同盟の完成した1554年は、義元の勢力が頂点に達した年である。この余裕が、六年後の尾張侵攻へと義元を向かわせることになる。
"背を固めずして前に進む者は、乱世に長らへず。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
甲陽軍鑑
三国同盟の経緯を武田方の視点から伝える
- 学術文献
今川義元
有光友學 / 吉川弘文館(人物叢書)
三国同盟の外交的意義を検討
- 公的所蔵
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