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資料No. SA-0079

侍アーカイブ

長宗我部元親

Chōsokabe Motochika

土佐の戦国大名、四国の覇者

第一章 — 人物概要

氏名長宗我部元親
英名Chōsokabe Motochika
出身日本
生没年1539–1599
性別男性
世紀16世紀
家・役職大名
肩書土佐の戦国大名、四国の覇者

第二章 — 経歴

1539年(天文八年)、土佐国岡豊城主・長宗我部国親の嫡男として生まれる。幼少期は色白で物静かなことから『姫若子』と侮られたが、1560年(永禄三年)、二十二歳での初陣・長浜の戦いで一転して武勇を示し、周囲を驚かせた。以後、半農半兵の家臣団『一領具足』を率いて土佐を統一する。

さらに阿波・讃岐・伊予へと版図を広げ、1585年(天正十三年)頃には四国の大半を制した。しかし同年、豊臣秀吉(本サイト id 2)の四国征伐を受けて降伏し、土佐一国のみを安堵された。1586年(天正十四年)、秀吉の九州征伐に従軍した戸次川の戦いで、嫡男・信親を島津軍との戦いで失う。

二十二歳の愛息の死は元親を深く変え、以後は猜疑的となり、後継をめぐって家中に粛清の禍根を残した。1597年には分国法『長宗我部元親百箇条』を制定。1599年(慶長四年)5月、伏見で病没した。享年六十一。関ヶ原の前年のことだった。四男・盛親が後を継いだが、関ヶ原で西軍につき改易され、長宗我部家は大名として滅んだ。

第三章 — 年表

1539土佐岡豊城に生誕
1560長浜の戦いで初陣、武勇を示す
1575土佐をほぼ統一
1585四国の大半を制するが秀吉に降伏
1586戸次川の戦いで嫡男・信親を失う
1599伏見にて病没、享年六十一

第四章 — 名言

信親を失うて、我が四国も、我が心も、半ば死んだ。もはや何を惜しむこともない。

-- 戸次川で嫡男を失った後の元親の心境として後世に伝わる(趣旨)

第五章 — 逸話

[A]姫若子の初陣——侮りを覆した一日

少年期の元親は、色白で背が高く、物静かで武芸を好まなかったため、家臣たちから『姫若子』と陰で侮られていた。当主の器ではないと危ぶむ声もあった。だが1560年、二十二歳で迎えた初陣・長浜の戦いで、元親は自ら槍を取って敵中に突撃し、見事な武勇を示した。

戦の作法を問われて『敵の目と目の間を突けばよい』と答えたという逸話も伝わる。この一日で、姫若子の評価は完全に覆った。侮られ続けた青年が、内に秘めていた資質を初めて世に示した瞬間だった。この後、元親は一領具足を率いて土佐統一へと突き進む。

人は見かけによらぬという教訓とともに、元親の名は四国に轟いていった。

第六章 — 影響と遺産

長宗我部元親は、土佐の一領主から身を起こし、一代で四国の大半を制した戦国屈指の版図拡大を成し遂げた。その原動力は、平時は農民、戦時は兵となる半農半兵の家臣団『一領具足』の機動力にあった。だが元親の栄光は長く続かなかった。天下人・秀吉の前に四国統一の夢は土佐一国へと縮められ、さらに戸次川で嫡男・信親を失ったことが、元親の後半生に深い影を落とした。

愛息を失った悲しみは元親を猜疑的な人物へと変え、後継をめぐる家中の対立と粛清を招いた。この禍根は、元親の死後に四男・盛親が関ヶ原で西軍につき改易される遠因ともなり、長宗我部家は大名として滅んだ。それでも元親が制定した分国法『長宗我部元親百箇条』や、土佐に根づいた一領具足の気風は、後の土佐藩の郷士層に受け継がれた。

幕末の坂本龍馬(本サイト id 8)や武市半平太(本サイト id 67)を生む土壌の一つともなっている。高知県南国市の岡豊城跡が、元親の本拠の名残を今に伝えている。

第七章 — 主な功績

  • [01]土佐の統一
  • [02]四国の大半の制圧(1585)
  • [03]一領具足による家臣団の編成
  • [04]分国法『長宗我部元親百箇条』の制定
  • [05]土佐郷士文化の基礎

第八章 — 参考資料

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    元親記

    元親の事績を家臣が記した覚書

  • 学術文献

    長宗我部元親

    山本大 / 吉川弘文館(人物叢書)

    現代の元親研究の代表的伝記

  • 公的所蔵

    岡豊城跡

    高知県南国市

    元親の本拠、高知県立歴史民俗資料館が隣接

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