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湊川の敗走——1336年、義貞は盟友・正成を救えなかった

1336年5月、摂津湊川。九州から巻き返した足利尊氏の大軍を前に、新田義貞と楠木正成は敗れた。正成は討死し、義貞は敗走して生き延びた。共に建武政権を支えた二人の、明暗を分けた一日だった。

新田義貞湊川の戦い足利尊氏

1336年(延元元年・建武三年)5月25日、摂津国湊川(現在の神戸市)。九州で軍を立て直した足利尊氏(本サイト id 25)が、水陸から京へ攻め上ってきた。迎え撃つ新田義貞と楠木正成(本サイト id 16)。

だが兵力の差は歴然だった。海岸で分断された両軍は各個に押し包まれ、正成は湊川の民家で自刃、義貞は兵を退いて京へ逃れた。生き残った義貞の胸に、盟友を救えなかった悔いが刻まれた。

尊氏との決裂

鎌倉幕府を共に倒した義貞と尊氏だが、建武の新政の恩賞と主導権をめぐって両者は決裂した。1335年、中先代の乱を機に尊氏が東国で自立の動きを見せると、義貞は尊氏追討の大将に任じられた。

だが箱根竹ノ下の戦いで敗れ、以後は劣勢に立たされた。かつて轡を並べた同じ源氏の武将が、いまや天下を二分して殺し合う。義貞の戦いは、いつしか大義と私怨の区別のつかぬ泥沼へと沈んでいった。

見殺しの汚名

湊川で正成が孤立して討たれたとき、義貞の軍は既に崩れて退却に移っていた。後世、義貞は『正成を見殺しにした男』と語られることになる。だが実際には、両軍とも尊氏の大軍に各個撃破されたのが実相に近い。

それでも、智勇兼備の忠臣・正成が死に、凡将と評された義貞が生き延びたという対比は、後世の人々に義貞を貶める格好の材料を与えた。義貞自身、盟友を失った痛みを生涯抱え続けた。

比叡山への退却

京を保てなくなった義貞は、後醍醐天皇を奉じて比叡山へ退いた。やがて後醍醐が尊氏と和睦する中で、義貞は置き去りにされる形となる。天皇のために戦い続けた男が、その天皇に見限られようとしていた。

義貞は皇子を奉じて北陸へ下る道を選ぶ。鎌倉を落としてわずか三年、栄光の頂点にあった英雄は、いまや落日の坂を転がり落ちていた。

"正成を死なせて、我一人生き延びた。この身の口惜しさ、誰か知らん。"
湊川の敗走後の義貞の悔恨として後世に伝わる(趣旨)

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    太平記

    湊川の戦いと義貞の敗走を伝える軍記

  • 学術文献

    新田義貞

    峰岸純夫 / 吉川弘文館(人物叢書)

    尊氏との抗争を実証的に検討

  • 公的所蔵

    新田荘遺跡

    群馬県太田市

    新田義貞ゆかりの地

    アーカイブを見る →

第十章 — 関連レポート

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