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稲村ヶ崎——1333年、義貞が海に太刀を投じて鎌倉を落とした
1333年5月、新田義貞は鎌倉の外れ稲村ヶ崎で海へ黄金の太刀を投じ、潮の引いた干潟を駆けて鎌倉へ攻め入った。百四十年続いた鎌倉幕府が、一人の不遇な御家人の挙兵から半月あまりで滅んだ。
1333年(元弘三年)5月、鎌倉の西、稲村ヶ崎(現在の神奈川県鎌倉市)。新田義貞は満ちた潮に行く手を阻まれ、断崖の下で立ち往生していた。前は海、崖上には北条方の弓兵。
義貞は腰の黄金の太刀を抜き、竜神に祈って海へ投じたと『太平記』は伝える。すると潮が沖へ退き、干潟が現れた。義貞はその泥濘を駆け、鎌倉へなだれ込んだ。
上野の御家人、綸旨に起つ
義貞は上野国新田荘(現在の群馬県太田市)の御家人で、足利氏と同じ源義国の血を引きながら、長く不遇の地位に置かれていた。1333年、後醍醐天皇の倒幕の綸旨が各地の武士を動かす。
義貞も生品明神の社頭で旗を挙げた。挙兵時の手勢はわずか百五十騎と伝わる。だが鎌倉へ向かう道々で反北条の兵が続々と加わり、軍は数万に膨れ上がっていった。半生を日陰で過ごした男に、ついに天下が振り向いた。
分倍河原の激闘
武蔵国分倍河原(現在の東京都府中市)で、義貞軍は北条方の主力と正面から衝突した。一度は敗れて退いたが、態勢を立て直して再び攻め、北条軍を打ち破った。鎌倉への道が開けた。
義貞にとってこの戦いは、長く軽んじられてきた新田一門の名を、一挙に天下へ知らしめる場となった。半生の鬱屈を、義貞はこの一戦に賭けていた。
百四十年の幕府、燃ゆ
稲村ヶ崎を越えた義貞軍は、鎌倉の市街へ突入した。市中は炎に包まれ、追い詰められた北条高時ら一門は、東勝寺に立て籠もって次々と自害した。その数八百余人と伝わる。源頼朝が開いて以来百四十年余、東国に君臨した鎌倉幕府が、ここに滅んだ。
義貞は勝者となった。しかしこの勝利が、彼を足利尊氏との宿命の争いへと否応なく押し出していくことになる。栄光の絶頂は、転落の出発点でもあった。
"長く日陰にあった新田の一門が、今日、源氏の名にかけて鎌倉を落とす。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
太平記
義貞の鎌倉攻めと稲村ヶ崎の逸話を伝える軍記
- 学術文献
新田義貞
峰岸純夫 / 吉川弘文館(人物叢書)
鎌倉攻めの実像を実証的に検討
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート