関連レポート

加賀百万石の重し——1599年、利家の死が均衡を崩した

1599年、前田利家は病の床で豊臣秀頼の後見を託されて世を去った。享年六十二。家康の専横を抑えうる唯一の重鎮だった利家の死は、その均衡を崩した。彼の死の翌日、大乱への歯車が回り始める。

前田利家五大老豊臣秀頼

1599年(慶長四年)閏3月3日、大坂。前田利家は病の床にあった。前年に豊臣秀吉(本サイト id 2)が没し、その遺言で幼い秀頼の傅役を託されたばかりだった。五大老の一人・徳川家康(本サイト id 3)の力を抑えられるのは、実力と人望を兼ねた利家ただ一人。

その利家が、主君の後を追うように逝こうとしていた。枕元には、共に苦労を重ねた妻・まつがいた。

秀吉の遺言

死の間際、秀吉は諸大名に幼い秀頼への忠誠を誓わせた。中でも利家には、秀頼を我が子のように守り育てよと繰り返し頼んだ。信長以来の盟友であり、律義者として天下に知られた利家なら、豊臣の血を守り抜くと信じたのだ。

利家もその信頼に応え、病躯を押して秀頼を大坂城に守り、家康の動きを牽制した。老いた二人の武将が、幼君を挟んで最後の駆け引きを続けていた。

家康への抑え

秀吉亡き後、家康は諸大名との無断の婚姻など、露骨に力を蓄え始めた。利家は病を押して家康の屋敷へ乗り込み、あるいは家康を大坂へ迎え、正面からその専横を抑えた。天下の武将たちは、利家が生きている限りは軽々に動けなかった。

利家の存在そのものが、豊臣と徳川の均衡を支える最後の重しだった。だがその重しは、日に日に軽くなっていく。

重しが外れた日

閏3月3日、利家は息を引き取った。その報が広まった翌日、加藤清正・福島正則(本サイト id 64)ら七将が、石田三成の屋敷を襲撃した。利家という抑えを失った途端、豊臣家臣団は武断派と文治派に割れ、争いが噴き出した。

この亀裂が、翌年の関ヶ原の戦いへと一直線に連なっていく。尾張の傾奇者から加賀百万石の太守となった男の死は、そのまま一つの時代の均衡が崩れる音でもあった。

"秀頼君を頼むと、殿は幾度も仰せられた。この約束だけは、まつよ、あの世まで持ってゆく。"
死の床の利家がまつに遺した言葉として後世に伝わる(趣旨)

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    太閤記

    秀吉の遺言と利家の後見を伝える

  • 学術文献

    前田利家

    岩沢愿彦 / 吉川弘文館(人物叢書)

    五大老としての利家を検討

  • 公的所蔵

    尾山神社

    石川県金沢市

    利家とまつを祀る神社

    アーカイブを見る →

第十章 — 関連レポート

資料終了 -- SA-RPT-toshiie-tairo-15991 / 1 ページ