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四条畷の後——1348年、兄の死が正儀に家督を回した
1348年正月、河内四条畷。楠木正行は北朝方・高師直の大軍と正面から激突し戦死した。父・正成に続いて兄も戦死し、楠木家の家督は三男・正儀に回った。以後四十年の生涯の始まり。
楠木正儀四条畷の戦い家督継承
1348年正月5日(正平三年正月五日)、河内国四条畷(現在の大阪府四條畷市)。楠木正行率いる南朝軍約三千は、北朝方・高師直の大軍二万に正面から挑み、半日の激戦の末に敗北した。
正行は自刃、享年二十三前後。父・正成の湊川での戦死(1336年)から十二年、楠木家は二代連続で当主を戦場で失った。
残された第三子
この時、河内で家督を継ぐことになったのは正成の三男・正儀だった。当時十八歳前後。父・正成の湊川戦死時に生後六年、以後は兄・正行の下で成長した。長兄・正行の急死により、楠木家に残された成人男子として家督継承が回ってきた。
父の湊川と兄の四条畷、二代の死を目の当たりにしての家督継承だった。
南朝方武将としての立場
正儀は父・正成、兄・正行と同様、南朝方の主要武将として和泉・河内・紀伊で北朝軍と戦い続けた。ただし正儀の戦い方は父兄と質的に異なる要素を含んでいた。父・正成の湊川以来、楠木家は『和議による戦乱終結』の理想を保持していた。
正儀はこの理想を、以後四十年の生涯を通じて具体的な和平交渉として実現しようと試みることになる。単なる父兄の遺志の継承ではなく、彼らが最期に見せた思想の政治的実行者としての道を選んだ。
"父の湊川、兄の四条畷、二代の死は無駄となしがたし。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
太平記
四条畷の戦いと正儀の家督継承を伝える
- 学術文献
楠木正儀
生駒孝臣 / 戎光祥出版
家督継承期の政治状況を実証的に検討
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート
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