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藤島——1338年、泥田の流れ矢が南朝の柱を折った
1338年閏7月、越前藤島。新田義貞はわずかな手勢で味方の救援に向かった先で足利方の大軍と遭遇し、泥田に馬を取られたところを流れ矢に射抜かれて戦死した。享年三十八。南朝はこの日、最大の軍事的支柱を失った。
1338年(延元三年・暦応元年)閏7月2日、越前国藤島(現在の福井県福井市)。新田義貞は、味方の窮地を救おうとわずか五十騎ほどで灯明寺畷へ駆けつけた。だが待っていたのは足利方・斯波高経の大軍だった。
逃げようにも一面の泥田に馬の脚を取られ、身動きが取れない。そこへ飛来した一本の流れ矢が、義貞の眉間を貫いた。鎌倉を落とした英雄の、あまりにあっけない最期だった。
北陸へ落ちた南朝の将
京を追われた義貞は、皇子・尊良親王と恒良親王を奉じて越前へ下った。北陸に南朝の拠点を築き、再起を期す戦略だった。しかし頼みの金ヶ崎城は足利方に包囲されて落城し、尊良親王は自害、義貞の子・義顕もこれに殉じた。
皇子を託されながら守り切れず、我が子までも失う。義貞の北陸の日々は、敗北と喪失の連続だった。
偵察という油断
藤島の付近では、義貞方と足利方が城をめぐって睨み合っていた。1338年閏7月2日、義貞は味方の危急を聞き、自ら手勢を率いて救援に向かった。総大将自らが小勢で前線へ出るのは、常ならば避けるべき行いだった。
焦りがあったのかもしれない。北陸での度重なる失敗を一つの武功で取り返したい、そんな思いが彼を無防備な野へ誘い出したとも伝わる。
南朝、柱を失う
義貞の首は足利方に晒され、その死は南朝に深い打撃を与えた。楠木正成に続いて新田義貞まで失い、南朝の軍事は屋台骨を折られた。江戸期の水戸学と明治の国家は、義貞を後醍醐天皇に殉じた忠臣として顕彰し、福井の藤島神社に祀った。
だが義貞自身が最期に見たのは、大義でも顕彰でもなく、ただ足を取られた越前の泥と、迫りくる一本の矢だけだった。子や皇子を守れなかった悔いを抱えたまま、英雄は泥田に沈んだ。
"越前の泥に脚を取られ、我ここに果てるか。子も皇子も守れなんだ、この身一つを。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
太平記
藤島の戦いと義貞の戦死を伝える軍記
- 学術文献
新田義貞
峰岸純夫 / 吉川弘文館(人物叢書)
義貞の最期を実証的に検討
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート