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海運戦争——1885年、覇者は競争のさなかに斃れた
西南戦争の軍事輸送で巨利を得た岩崎弥太郎は、海運界の覇者となった。だが政府系の共同運輸との激烈な運賃競争が彼を苦しめる。日本一の富を築いた男は、その死闘のさなかに志半ばで世を去った。
1885年(明治十八年)2月、東京。海運界に君臨した岩崎弥太郎は、病の床にあった。胃癌だった。享年五十。三菱を日本最大の海運会社へと育て上げた弥太郎は、最後の日々を、政府系の共同運輸会社との熾烈な運賃競争のただ中で過ごした。
日本一の富を築いた男は、宿敵との死闘に決着を見ぬまま、志半ばで世を去ろうとしていた。
西南戦争の特需
弥太郎の三菱を飛躍させたのは、政府の軍事輸送だった。1874年の台湾出兵、そして1877年の西南戦争で、三菱は政府軍の兵員と物資の輸送を一手に引き受けた。国内最大の内戦であった西南戦争の輸送需要は膨大で、三菱はこれによって莫大な利益を得る。
政府の保護のもと、三菱は日本の海運をほぼ独占する地位に登りつめた。弥太郎は、名実ともに海運王となったのである。
共同運輸との死闘
三菱の独占には、政府内外から批判も高まった。政商として利権を貪るという非難である。やがて、三井などが後ろ盾となった共同運輸会社が設立され、三菱に真っ向から挑んだ。
両社は運賃を極限まで下げ合う消耗戦へと突入する。乗客一人を破格の運賃で奪い合うその競争は、双方の体力を激しく削った。海運界の覇権をめぐるこの死闘は、弥太郎の心身をも蝕んでいった。
志半ばの死
熾烈な競争が続くさなかの1885年2月、弥太郎は胃癌のため世を去った。五十歳。宿敵との決着を見届けることはできなかった。弥太郎の死後まもなく、消耗戦に疲れた三菱と共同運輸は合併し、日本郵船が誕生する。
皮肉にも、弥太郎の死が両者の泥沼の競争に終止符を打ったのである。地下浪人の子として生まれ、一代で日本最大の富を築いた男の生涯は、道半ばで閉じた。だが弥太郎が築いた三菱は、弟や息子に受け継がれ、日本経済の中枢を担う巨大財閥へと発展していく。
最下層から身を起こした男の執念は、その死後も日本を動かし続けた。
"共同との決着、この目で見たかった。だが三菱は残る。あとは頼むぞ。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
岩崎弥太郎日記
海運競争期の弥太郎の記録
- 学術文献
企業家たちの挑戦
宮本又郎 / 中央公論新社
海運戦争と弥太郎の死を検討
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート