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槍の又左——傾奇者が信長に許された日
若き前田利家は『槍の又左』と呼ばれた傾奇者だった。信長の寵臣を斬って出奔し、桶狭間・森部の戦場に無断で加わって首級を挙げ、ようやく帰参を許された。命がけの武功で拾った、二度目の奉公だった。
1561年(永禄四年)、美濃・森部(現在の岐阜県安八郡)。前田利家は、主君・織田信長(本サイト id 1)から勘当された身のまま、無断で戦場に現れた。二十四歳。
前年、信長の同朋衆・拾阿弥を斬り捨てて出奔していた。帰参を許されぬなら、戦で首を取って詫びるほかない。利家は敵陣に駆け入り、名のある武者の首を挙げた。禄を失った若者の、命を賭けた一手だった。
傾奇者の若き日
利家は尾張荒子城主・前田利春の四男に生まれ、幼名を犬千代といった。長身で槍の名手、派手な身なりを好む傾奇者だった。十四で信長に小姓として仕え、赤母衣衆に選ばれる。
信長の寵愛は篤かった。だが血の気の多さが災いする。信長が可愛がる茶坊主・拾阿弥との諍いから、利家はついに刃傷に及んでしまう。
笄斬りと出奔
拾阿弥は利家の大切な笄(刀の装具)を盗んだと伝わる。侮辱に耐えかねた利家は、信長の面前に近い場で拾阿弥を斬った。主君の寵臣を勝手に殺した罪は重い。信長は激怒し、利家は死罪こそ免れたものの追放された。
妻・まつを娶ったばかりの、若き日の蹉跌だった。禄を失い、士としての誇りだけを抱えて、利家は牢人の身に落ちた。
首二つで拾った奉公
帰参を願う利家に、信長は言葉では許さなかった。ならば戦場で示すのみ。利家は桶狭間に続き、翌年の森部の戦いにも無断で加わり、名のある武者ら二つの首級を挙げた。この働きがついに信長の心を動かし、帰参が叶う。
若さゆえの過ちを、若さゆえの武勇で贖った。以後の利家は、律義に主君へ仕える男へと変わっていく。この出奔と帰参の痛みが、傾奇者を大器へと鍛え直した。
"禄を失い、まつに苦労をかけた。この首二つ、詫びの証として殿に捧げる。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
信長公記
太田牛一
利家の森部の戦功を記す一次史料
- 学術文献
前田利家
岩沢愿彦 / 吉川弘文館(人物叢書)
利家の出奔と帰参を実証的に検討
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート