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義尚の死——1489年、母が将軍にした我が子は陣中に果てた

母・富子が執念で将軍位につけた足利義尚は、近江への出陣中に二十五歳で病没した。我が子のために悪女の汚名すら厭わなかった富子に残されたのは、先立たれた母の哀しみだけだった。

日野富子足利義尚室町

1489年(長享三年)3月、近江・鈎の陣(現在の滋賀県栗東市一帯)。九代将軍・足利義尚は、幕府に従わぬ近江の六角氏を討つための出陣の陣中で、病に倒れて世を去った。

二十五歳。母・日野富子が、応仁の乱の火種となることも、悪女と罵られることも厭わず、将軍の座につけた我が子だった。その子が、母に先立って逝った。富子の執念が行き着いた先は、あまりに空しい結末だった。

母の望んだ将軍

義尚は1473年、わずか九歳で九代将軍となった。母・富子の願いが、ついに叶った瞬間だった。富子は我が子を将軍にするために、応仁の乱の一方の当事者となり、蓄財の汚名も背負ってきた。

そのすべては、義尚をこの座につけ、足利将軍家を我が子の血で継がせるためだった。一人の母の情念が、幼い少年を天下の頂点へと押し上げたのである。

将軍親征

成長した義尚は、地に落ちた将軍の権威を取り戻そうと、近江の六角高頼の討伐を自ら率いた。1487年、義尚は大軍を率いて近江へ出陣する。だが遠征は長引き、戦果は上がらなかった。

陣中での義尚は酒色に溺れたとも伝わり、次第に体を蝕んでいった。母が心血を注いで将軍にした我が子は、その重責と放埒の果てに、若い体を病に沈めていった。

残された母

1489年、義尚は鈎の陣で二十五歳の生涯を閉じた。母・富子が背負ってきた執念と汚名の、あまりに空しい結末だった。我が子を将軍にするために乱の火種となり、守銭奴と罵られ、それでも貫いてきた母の望みは、その子の早すぎる死によって根こそぎ奪われた。

富子はその後も甥の義稙や義澄の擁立に関わり、幕府の混乱の中で生き続ける。だが我が子を失った母の哀しみは、埋めようもなかった。1496年、富子は世を去った。

"義尚を将軍にと、鬼と罵られても厭わなんだ。その子に先立たれて、何が残ろう。"
義尚に先立たれた富子の心境として後世に伝わる(趣旨)

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    大乗院寺社雑事記

    尋尊の日記、義尚の親征と死を記す

  • 学術文献

    応仁の乱

    呉座勇一 / 中公新書

    義尚政権と富子の晩年を検討

  • 公的所蔵

    相国寺

    京都府京都市

    足利将軍家の菩提寺

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第十章 — 関連レポート

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