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応仁の乱——1467年、我が子を将軍にせんとする母の執念が京を焼いた
実子・義尚を将軍にしたい日野富子と、既に後継と定められた義視。この足利将軍家の世継ぎ争いが、諸大名の権力闘争に火を付けた。十一年に及ぶ応仁の乱で、京都は焦土と化した。
1467年(応仁元年)、京都。足利将軍家の世継ぎをめぐる対立が、ついに諸大名を巻き込む大乱へと発展した。八代将軍・足利義政の正室・日野富子は、我が子・義尚を次の将軍にせんとしていた。
だが義政は既に、実子のない頃に弟・義視を後継と定めていた。母の情念と将軍家の約束が真っ向からぶつかり、京の都は東西両軍の戦火に包まれていく。
世継ぎのない将軍
八代将軍・足利義政には長く実子がなかった。そこで義政は、弟の義視を還俗させて後継に定め、細川勝元をその後見とした。ところが1465年、正室の富子が男子・義尚を産む。
実の我が子が生まれた以上、富子は義尚を将軍にと願った。母として当然の情だったが、この願いは既に定まっていた後継の約束を覆すものだった。将軍家の中に、二つの世継ぎ候補が生じたのである。
二つの陣営
富子は、我が子・義尚の後ろ盾を山名宗全に求めた。一方、後継と定められた義視は細川勝元に支えられていた。折しも幕府の実力者である細川と山名は、かねてより主導権を争っていた。
将軍家の世継ぎ問題は、この二大勢力の対立と結びつき、諸大名を巻き込んで一気に燃え上がる。一人の母の情念が、時代の火薬庫に火を投じたのである。
焦土となる京
1467年、東軍の細川方と西軍の山名方が京都で激突した。戦いは一年で終わらず、十一年もの長きにわたって続く。京の市街は度重なる放火と略奪で焼け野原となり、貴族の邸宅も寺社も灰燼に帰した。
応仁の乱である。母が我が子を将軍にと願った一途な情念は、期せずして日本の中世そのものを終わらせる大乱の引き金となった。富子はこの戦乱の渦中で、政治の表舞台に立つことになる。
"義尚を将軍にと願うたは、母の情。それが都を焼くとは、誰が思うたか。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
大乗院寺社雑事記
尋尊の日記、応仁の乱の動向を記す一次史料
- 学術文献
応仁の乱
呉座勇一 / 中公新書
世継ぎ争いと乱の勃発を最新研究で検討
- 公的所蔵
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