関連レポート

牧氏事件——1205年、時政は権力の頂点から転落した

1205年閏7月、時政は後妻・牧の方と共に平賀朝雅を将軍に擁立する陰謀を企てた。しかし娘・政子と子・義時の反撃により失敗、失脚して伊豆に隠退した。権力の頂点からの急転落。

北条時政牧氏事件失脚

1205年(元久二年)閏7月19日、鎌倉。北条時政は突然、鎌倉から伊豆国北条へ強制的に隠退させられた。前日までは政所別当として鎌倉幕府の最高実務者だった時政が、一日で権力の頂点から転落した。

娘・政子と子・義時が主導した反撃・後世『牧氏事件』と呼ばれるクーデター・による転落だった。享年六十七、以後の十年間を伊豆で過ごすことになる。

後妻・牧の方の存在

時政は最初の妻・伊東氏(政子・義時の母)と死別した後、後妻・牧の方を迎えた。牧の方は京都出身とされ、時政の政治判断に強い影響力を持った。時政と牧の方の間には娘たちが生まれ、その一人が幕府の有力御家人・平賀朝雅(清和源氏の一族)の妻となった。

牧の方は自らの娘婿・朝雅を将軍にするという野心を抱いた。

実朝暗殺計画と失敗

1205年閏7月、時政と牧の方は三代将軍・実朝の暗殺と、平賀朝雅の将軍擁立を計画したとされる。しかしこの計画は事前に政子と義時の耳に届いた。実朝の実母である政子は、息子の暗殺計画への父・時政の関与に激怒した。

義時は父を鎌倉から強制排除する行動に出た。政子・義時の連携により、実朝は保護され、時政は監禁下で伊豆への隠退を命じられた。牧の方も同時に失脚、朝雅は京都で殺害された。

以後の十年・伊豆の隠退

時政は伊豆国北条で以後十年を過ごした。既に隠居となった時政は幕府政治から完全に切り離された。以後の幕府は義時が二代執権として率い、承久の乱(1221)で朝廷を破って幕府の権威を確立する。

時政が創始した『執権政治』の制度は、皮肉にも創始者本人が失脚した後で本格的に定着した。1215年(建保三年)1月6日、時政は伊豆国北条で没した。享年七十八。伊豆の願成就院に葬られた。

娘・政子の政治的成長が父・時政を打倒するに至った瞬間は、鎌倉幕府の権力構造が北条氏内部で更に洗練されていく過程を示している。

"時政、伊豆に退く。政子・義時の勝利なり。"
吾妻鏡(趣旨)

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    吾妻鏡

    鎌倉幕府編纂

    1205年の牧氏事件と時政失脚を伝える

  • 学術文献

    北条時政と北条政子

    野口実 / 山川出版社

    牧氏事件の政治的背景を実証的に検討

  • 公的所蔵

    願成就院

    静岡県伊豆の国市

    時政隠退地

    アーカイブを見る →

第十章 — 関連レポート

資料終了 -- SA-RPT-tokimasa-1205-fall1 / 1 ページ