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1203年、時政はいかに執権政治を作ったか
1203年、時政は二代将軍・頼家(自らの孫)を排除し、三代将軍・実朝を擁立、政所別当に就任した。以後八百年続く『執権政治』——将軍を戴きながら執権が実権を握る二重構造の起源。
1203年(建仁三年)8月末、鎌倉。二代将軍・源頼家(当時二十一歳、時政の孫)が急な病に倒れた。頼家の後継をめぐって鎌倉幕府の内部政治が急速に緊迫化した。当時、時政は幕府政所別当補佐的立場にあり、頼家母・政子(時政の娘)とも連携していた。
この病を契機に時政は幕府の権力構造を根本的に再編する動きに出た。
頼家排除の決定
時政は頼家を修禅寺(現在の静岡県伊豆市)に幽閉し、実質的に将軍職から排除した。頼家の擁護派である比企能員一族を9月に討伐(比企氏の乱)、幕府内の反時政派を粛清した。
1203年10月、頼朝の次男・実朝(当時十二歳)を三代将軍として擁立、自らは政所別当(実質的な幕府の最高実務役職)に就任した。以後、この職は『執権』と呼ばれるようになる。
『執権』という制度の意味
時政の政所別当就任は、日本の政治史における画期的な制度創出だった。将軍を象徴的頂点として戴きながら、実権は執権が握るという二重構造。以後、鎌倉幕府では九代の北条氏執権が実権を握り、将軍職は名目化した。
この構造は江戸幕府の『将軍と老中』の関係にも影響を残し、日本の武家政権における『象徴と実権の分離』の原型となった。時政個人の1203年の決断が、以後六百年以上の日本の政治構造を規定した。
娘・政子との共闘
1203年の頼家排除は、時政単独ではなく、娘・政子との共闘によって実現した。政子は頼家の実母でありながら、息子を排除する父の決断を支持した。母子関係より鎌倉幕府の存続を優先する政治的判断だった。
時政・政子・義時(時政の子)の三人による『北条氏執行部』が、以後の鎌倉幕府の統治構造を作った。政子は後に『尼将軍』として承久の乱(1221)で決定的な役割を果たすことになる。
"時政、政所別当となる。以後の執権の始めなり。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
吾妻鏡
鎌倉幕府編纂
1203年の頼家排除と時政の政所別当就任を伝える
- 学術文献
北条時政と北条政子
野口実 / 山川出版社
執権政治成立の経緯を検討
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート