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失脚——1788年、改革者は汚名を着せられて葬られた
嫡子を城中で斬られ、天明の飢饉の混乱を負わされ、将軍の死とともに田沼意次は失脚した。後継の松平定信はその政策をことごとく否定する。時代を先取りした改革者は、旧来の価値観に葬られた。
1786年(天明六年)、江戸城。田沼意次の最大の後ろ盾だった十代将軍・徳川家治が世を去った。その死の直後、意次は老中を罷免され、権力の座から一気に転落する。相良の所領は没収され、屋敷も取り上げられた。
二十年近く幕政を主導した改革者が、後ろ盾を失った途端、たちまち失脚したのである。意次を待っていたのは、汚名と孤独の晩年だった。
嫡子・意知の横死
失脚に先立つ1784年、意次を深い悲しみが襲っていた。若年寄として父を支えていた嫡子・田沼意知が、江戸城中で旗本・佐野政言に斬りつけられ、命を落としたのである。
将来を託した後継者を、城の中で突然に失う。意次個人にとって、これほどの痛手はなかった。世間はこの事件を、田沼の権勢への天罰であるかのように噂した。父の悲嘆は、政治的な孤立と重なって、意次を追い詰めていった。
飢饉と反発
折しも天明年間は、大飢饉と浅間山の噴火が重なり、全国が飢えと混乱に見舞われていた。意次の商業重視の政策は、こうした民衆の困窮の責めを負わされた。実際には飢饉は天災の要素が大きかったが、人々の不満は権力者・田沼に向けられた。
賄賂政治という悪評も、この反発の中で増幅されていく。改革の成果が実る前に、意次は時代の逆風に呑み込まれていった。
否定された改革
意次の失脚後、幕政の実権を握ったのは松平定信だった。定信の寛政の改革は、田沼の政策をことごとく否定し、緊縮財政と農本回帰へと舵を切った。商業重視の路線は葬られ、意次の名は『賄賂政治家』の代名詞として貶められる。
1788年、意次は失意のうちに世を去った。享年七十。時代を先取りした改革者の遺志が正当に評価されるまでには、二百年近い歳月を要した。嫡子を失い、汚名を着せられて逝った意次の晩年は、あまりに寂しいものだった。
"我が改革、いつの日か正しく解される時が来ようか。意知よ、無念なのは父の方ぞ。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
徳川実紀
意知の横死と意次の失脚を記す幕府の編纂記録
- 学術文献
田沼意次の時代
大石慎三郎 / 岩波書店
意次の失脚と後世の評価を検討
- 公的所蔵
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