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薬子の変——810年、老将が守った平安の秩序

810年、平城太上天皇と嵯峨天皇が対立する薬子の変が起きた。老境の坂上田村麻呂は嵯峨天皇方の軍を率い、平城上皇の東国行きを阻んで政変を鎮めた。武人として最後の大役だった。

坂上田村麻呂薬子の変平安

810年(弘仁元年)9月、平安京。譲位した平城太上天皇と、弟の嵯峨天皇が政治の主導権をめぐって激しく対立した。平城上皇は旧都・平城京への遷都を図り、東国の兵を頼ろうと動いた。

世に薬子の変という。この危機に、老境に入っていた坂上田村麻呂は嵯峨天皇方の将として起用され、上皇の東国行きを阻む重責を担った。

二人の天皇の対立

平城上皇は病を理由に弟の嵯峨天皇へ譲位したが、回復後に再び政治への関与を強めた。上皇の寵臣・藤原薬子とその兄・仲成が、上皇の復権を後押しした。平城京への遷都をめぐって、朝廷は上皇方と天皇方の二つに割れた。

一つの朝廷に二つの権力の中心が生じる危機的な状況だった。武力衝突の可能性が現実味を帯びていった。

東国路を塞ぐ

嵯峨天皇は先手を打ち、田村麻呂ら有力な武将に上皇方の抑え込みを命じた。平城上皇は東国へ向かい、地方の兵を集めて対抗しようとした。田村麻呂は軍を率いて上皇の東国行きの経路を塞いだ。

東国の兵力を頼みとする上皇の目算は、田村麻呂の迅速な布陣によって断たれた。武力に訴える前に上皇方の戦略は崩れ、上皇は挙兵を断念した。

老将の最後の務め

上皇は出家し、薬子は自害、仲成は処刑されて政変は収束した。武力衝突をほぼ経ずに事態が収まった背景には、田村麻呂ら武将の迅速な行動があった。翌811年(弘仁二年)、田村麻呂は病没した。

享年五十四。武装したまま立った姿で葬られたと伝わり、都を守る守護神とされた。蝦夷征討から都の政変鎮定まで、その生涯は平安初期の秩序を武の力で支えたものだった。

"武は乱を鎮むるためにあり。世の静まるを見て、将の務め終はる。"
晩年の田村麻呂の述懐として後世に伝わる(趣旨)

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    日本後紀

    薬子の変における田村麻呂の動きを記す

  • 学術文献

    坂上田村麻呂

    高橋崇 / 吉川弘文館(人物叢書)

    薬子の変と田村麻呂晩年を検討

  • 公的所蔵

    清水寺

    京都府京都市東山区

    田村麻呂ゆかりの観音霊場

    アーカイブを見る →

第十章 — 関連レポート

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