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胆沢の平定——802年、田村麻呂とアテルイの対峙
802年、坂上田村麻呂は胆沢の地を平定し、蝦夷の指導者アテルイを降伏させた。田村麻呂はアテルイの助命を朝廷に嘆願したが容れられず、勇敢な敵将は処刑された。征討する者とされる者、双方の悲劇である。
802年(延暦二十一年)、陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市一帯)。坂上田村麻呂は胆沢の地に胆沢城を築き、東北経略の拠点とした。長く朝廷軍を退けてきた蝦夷の指導者アテルイ(阿弖流為)が、この年ついに田村麻呂のもとに降伏した。
数百人の仲間を率いての降伏だった。東北の抵抗の象徴だったアテルイの帰順は、朝廷の胆沢平定を決定づけた。
アテルイの抵抗
アテルイは胆沢を拠点とする蝦夷の指導者で、朝廷軍に対して長く戦いを続けてきた。789年には朝廷の大軍を巴の地で大敗させ、その名を天下に知らしめた。地の利を活かした蝦夷の戦法は、平地戦に慣れた朝廷軍を苦しめた。
田村麻呂の遠征は、このアテルイの抵抗を屈服させることを最大の目的としていた。
降伏の決断
田村麻呂の粘り強い攻略の前に、アテルイはついに抗戦の継続を断念した。802年、アテルイは盟友モレ(母礼)と共に、五百余人を率いて田村麻呂に降った。これ以上の戦いが同胞の犠牲を増すだけと見た、指導者としての苦渋の決断だったと伝わる。
田村麻呂はアテルイの武勇と器量を高く評価し、二人を伴って都へ上った。
助命嘆願と処刑
田村麻呂はアテルイとモレの助命を朝廷に願い出た。降伏した勇将を殺すのは将の恥であり、東北統治にも彼らの力が要ると説いたと伝わる。しかし公卿たちは、蝦夷の指導者を生かせば再び乱の種になると恐れ、二人を河内国で処刑した。
征討する者とされる者、双方の悲劇である。現代の東北では、アテルイは郷土の英雄として、田村麻呂と共に記憶されている。
"降る者を殺すは、武の道にあらず。かの者らの力、東国を安んずるに要あり。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
日本紀略
アテルイの降伏と処刑を伝える
- 学術文献
坂上田村麻呂
高橋崇 / 吉川弘文館(人物叢書)
胆沢平定とアテルイ降伏を検討
- 公的所蔵
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