関連レポート

近代の中野竹子——敗者の記憶がいかに顕彰されたか

戊辰戦争は新政府軍の勝利で終わり、以後半世紀、会津の記憶は敗者として抑圧された。しかし大正期以降、中野竹子と娘子軍の物語は会津の民衆記憶の中で復活し、現代では海外にも知られる女性侍のアイコンとなった。

中野竹子会津戦争近代顕彰

1868年9月22日、会津若松城が開城し、会津戦争は新政府軍の勝利で終わった。会津藩は改易、藩士と家族は下北半島の斗南(となみ、現在の青森県むつ市周辺)に移封された。

厳寒の地での二千五百名以上の死亡を含む苦難の始まりだった。中野竹子と娘子軍の記憶は、この敗者としての会津の集合的記憶の中で長く扱われることになる。

明治期。沈黙の時代

明治政府は薩長を中心とする新政府軍出身者で構成され、戊辰戦争の記憶は勝者の側の物語として構築された。会津の側から戦争の記憶を語ることは、明治期を通じて公的には抑圧された。

竹子と娘子軍の物語も、会津の民衆の口伝の中で細々と保持されるに留まった。妹・優子は明治期を生き延び、姉の生涯を家族と親しい者たちに語り継いだ。

大正期。顕彰の始まり

大正期(1912-1926)に入ると、明治政府中心の歴史観が緩み、地方の記憶が復活し始めた。会津でも竹子と娘子軍の顕彰活動が始まった。1932年(昭和七年)、法界寺の境内に『中野竹子殉節之地』の碑が建立された。

会津の民衆記憶の中で細々と保持されていた竹子の物語が、公的な顕彰の対象となった。会津の女子教育の場で、竹子は理想像として語られるようになった。

現代。女性侍のアイコン

現代では中野竹子の名は、日本国内だけでなく海外でも知られるようになった。二十一世紀に入って女性侍・女性戦闘員への海外の関心が高まり、Nakano Takeko の名は英語圏のドキュメンタリー・小説・ゲームで取り上げられるようになった。

Netflix ドキュメンタリーやアメリカのケーブルテレビの歴史番組でも紹介例がある。二十一歳で戦死した会津の女武者の物語は、日本近代の入り口における女性の物語として、四百年前の巴御前(本サイト id 28)から続く『女性侍』の系譜の中で位置付けられている。

会津坂下町の法界寺は現在も女性侍への関心を持つ来訪者が絶えない。

"武人の家に生れて、この時に及んで戦はざるは、女子の恥なり。"
竹子が娘子軍結成時に述べたと伝わる(趣旨)

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    会津戊辰戦争史料集

    会津若松市編纂

    戊辰戦争後の会津の記憶を伝える

  • 学術文献

    娘子軍——会津戦争の女たち

    早乙女貢 / 文藝春秋

    竹子の近代以降の顕彰を検討

  • 公的所蔵

    法界寺

    福島県河沼郡会津坂下町

    竹子の墓と『中野竹子殉節之地』の碑

    アーカイブを見る →

第十章 — 関連レポート

資料終了 -- SA-RPT-takeko-modern-legacy1 / 1 ページ