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涙橋——1868年8月25日、竹子は娘子軍を率いて銃弾に倒れた
1868年8月25日、会津坂下近郊の柳橋(後に涙橋)で、中野竹子率いる娘子軍二十数名が新政府軍と交戦した。半刻の戦闘で竹子は薙刀で数名を斬った後、銃弾に倒れた。享年二十一。
1868年8月25日(慶応四年七月八日)朝、陸奥国河沼郡柳橋(現在の福島県河沼郡会津坂下町、後に『涙橋』と改称)。会津若松城の籠城戦が始まってから二日目、新政府軍の一部が城下から西方へ進軍していた。
この街道上の橋を、中野竹子率いる女性武装集団二十数名。後に『娘子軍』と呼ばれる部隊。が阻止しようとした。竹子二十一歳、周辺には母・こう子(四十八歳)と妹・優子(十六歳)も含まれていた。
娘子軍の編成
娘子軍は正規の会津藩の部隊ではなく、竹子ら会津の女性武術修得者が自発的に組織した女性のみの戦闘集団だった。約二十名から三十名、全員が薙刀を主武器とし、白布の額紐と袴を着けた戦闘装束を纏っていた。
藩は当初、女性を城内に留めることを命じていたが、竹子は独自の判断で城外で戦闘に参加する道を選んだ。組織的な作戦命令下ではなく、独自の遊撃戦としての位置付けだった。
柳橋での交戦
8月25日朝、柳橋を渡ろうとする新政府軍(長州藩・薩摩藩の混成部隊)に対して、娘子軍は薙刀を構えて突入した。近距離戦闘では竹子は数名の新政府軍兵を斬った。しかし新政府軍は近代的銃器(ミニエー銃・スペンサー銃)で武装しており、遠距離からの銃撃が娘子軍を圧倒した。
半刻(約一時間)の戦闘の中で、竹子は銃弾を胸に受けて倒れた。同時に娘子軍の他の複数名も戦死した。
妹・優子による首の切り取り
倒れた竹子のもとに、妹・優子と母・こう子が駆け寄った。竹子はまだ意識があり、優子に自分の首を落として敵手に渡さぬよう頼んだと伝わる。優子は薙刀で姉の首を切り落とし、布に包んで戦場を離脱した。
母と娘は約十キロ離れた法界寺(会津坂下町)まで首を運び、寺に埋葬を依頼した。姉妹の間で交わされた最期の言葉と行為は、当時の武家における首の扱いへの敬意。首を敵に取られることは家名の恥辱という価値観。
を反映している。
"竹子倒れて後、妹・優子姉の首を切りて持ち去る。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
会津戊辰戦争史料集
会津若松市編纂
娘子軍の戦闘記録を含む
- 学術文献
娘子軍——会津戦争の女たち
早乙女貢 / 文藝春秋
涙橋の戦いを実証的に検討
- 公的所蔵
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