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会津の女性武術——竹子はどこで薙刀を学んだか
会津藩は女性藩士にも本格的な武術教育を施す稀有な藩だった。江戸屋敷で高橋秀太郎に師事した中野竹子は、この伝統の中で最高水準の薙刀の使い手として成長した。
1847年、中野竹子は江戸の会津藩邸に生まれた。父・中野平内は会津藩士で、江戸勤番の関係で家族と江戸で暮らしていた。少女期の竹子は、この江戸屋敷で本格的な薙刀術の教育を受けた。
師は高橋秀太郎。当時の武家女性の武術教育としては例外的に本格的なものだった。
会津藩の女性武術伝統
会津藩は女性藩士にも武術教育を施す独自の伝統を持っていた。江戸期の他の多くの藩では、武家女性の武術は形式的な護身術程度に留まったが、会津藩では薙刀・小太刀を中心とする本格的な実戦訓練が藩士の娘たちに施された。
この伝統は藩祖・保科正之(1611-1673)以来の会津藩の家風で、山鹿素行流の武家倫理に基づく。女性も武家の一員として、有事には戦闘員として振る舞うことが求められた。
薙刀。女性のための武器
薙刀(なぎなた)は柄の先に反りのある刀身を付けた長柄武器で、平安期から戦国期にかけて使用された。江戸期に入ると武家女性の武器として位置付けられた。刀と比べて距離があり、力の差を技術と武器の長さで補える利点があった。
会津藩では女性の薙刀技術を教える道場が藩公認で運営されていた。竹子は江戸屋敷で修めた薙刀術を、二十歳前後で完成の域に達したとされる。
戊辰戦争前夜の帰藩
1868年(慶応四年)1月の鳥羽・伏見の戦い以降、戊辰戦争が拡大した。会津藩は新政府軍の主要標的の一つとなった。江戸屋敷にいた竹子と家族は会津若松に帰藩、藩の危機に備えた。
二十一歳の竹子は、この時期に自らを『戦闘員』として位置付けた。若い女性の武術修得者として、実戦の場に立つ準備が整っていた。会津の女性武術教育の伝統が、この時点で歴史的意義を持つことになる。
"会津の武家、女子と雖も武を修む。有事の日に備ふるなり。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
会津戊辰戦争史料集
会津若松市編纂
会津藩の女性武術教育を伝える
- 学術文献
娘子軍——会津戦争の女たち
早乙女貢 / 文藝春秋
会津藩の女性武術教育を実証的に検討
- 公的所蔵
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