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山内容堂の粛清——1865年、三十七歳の半平太は切腹した
1863年8月18日の政変で勤王派が朝廷から失勢、土佐でも前藩主・山内容堂による勤王党弾圧が始まった。約二年の獄中生活の後、1865年5月11日、半平太は切腹を命じられた。土佐勤王党の終焉。
1865年(慶応元年)5月11日、土佐国高知城下・南会所の獄内。武市半平太は土佐藩により切腹を命じられた。三十七歳。切腹の際、通常の一文字腹ではなく、三文字腹(三度腹を横に切る)を切ったと伝わる。
武士としての矜持を示す極めて困難な作法で、半平太の武道家としての力量を象徴する最期だった。
1863年8月18日の政変。勤王派の失勢
1863年(文久三年)8月18日、京都御所で公武合体派(薩摩・会津藩)が朝廷を掌握、尊王攘夷急進派の公家七名(三条実美ら)と長州藩を京都から追放するクーデター(八月十八日の政変)が起きた。
この政変により、朝廷を利用して藩政を動かしていた土佐勤王党の政治的基盤は崩壊した。前藩主・山内容堂は勤王党の粛清を決断した。
獄中の二年間
1863年9月、半平太は逮捕された。同時に土佐勤王党員百七十名余が投獄・尋問された。獄中の半平太は、同志たちを守るため単独犯を主張する供述を続けた。同時に、獄中で多数の書簡・自画像・書を残した。
獄中書簡は龍馬・容堂・妻・母への訴えを含み、幕末志士の思想と精神性を伝える貴重な史料となっている。二年間の尋問の末、山内容堂は最終的に切腹を命じた。
三文字腹の切腹
1865年5月11日、獄内での切腹。半平太は右腹から左腹へ、左腹から右腹へ、そして下から上へ。三度腹を切ったと伝わる。通常の切腹は一文字腹(一度横に切る)で、介錯人が首を落とす。
三文字腹は自ら実行することが極めて困難な作法で、切腹する者の精神力と技量を示す最高の形式とされた。同時に処刑された岡田以蔵ら勤王党員複数を含めて、土佐勤王党は実質的に壊滅した。
三年八か月続いた勤王党の歴史は、この日で終わった。
"武市瑞山、獄中にて自刃す。三文字腹を切りしと伝ふ。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
武市瑞山関係文書
国立国会図書館憲政資料室
獄中書簡と切腹時の記録を含む
- 学術文献
武市半平太伝
松岡司 / 新人物往来社
山内容堂の弾圧と切腹を実証的に検討
- 公的所蔵
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