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土佐勤王党結成——1861年、半平太は二百人の同志を集めた
1861年8月、江戸で修行を終えて土佐に戻った武市半平太は、剣術道場を拠点に土佐勤王党を結成した。約二百名の郷士・浪人・下級藩士を集めた組織は、以後三年間、幕末動乱の中核の一つとなる。
1861年(文久元年)8月、土佐国高知城下(現在の高知市)。江戸での剣術修行と諸藩志士との交流を経て土佐に帰藩した武市半平太は、この月、土佐勤王党(土佐郷士党とも)を結成した。
半平太三十二歳。二百名近い同志が集まり、その大半が郷士・浪人・下級藩士層。上士(上級藩士)の下に置かれた身分の武士たちだった。
土佐の身分制と郷士層の鬱屈
土佐藩の武士は『上士』(山内家旧臣)と『郷士』(長宗我部氏旧臣の子孫)に二分されていた。関ヶ原後の山内一豊入部(1601)以来、二百六十年の身分固定が続いていた。
上士は藩政の中枢を占め、郷士は下位に置かれた。半平太は郷士出身で、この身分秩序への鬱屈を共有する下級武士層を尊王攘夷の理念でまとめ上げた。土佐勤王党は思想運動であると同時に、社会的階層運動でもあった。
血判起請文
土佐勤王党の結成は、志士たちが血判起請文に署名する形式で行われた。約百九十二名の署名が残る(半平太を筆頭とし、坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村虎太郎・岡田以蔵らを含む)。
同志の相互監視と裏切り防止の意味を持つ強固な結束の誓約だった。半平太はこの起請文の起草者であり、勤王党全体の首領として位置づけられた。
1862年。藩政掌握の時期
結成から一年、1862年(文久二年)4月、勤王党員により藩の実力者・吉田東洋が暗殺された。犯人は勤王党員の那須信吾ら三名で、半平太の指示があったとする見方が有力である。
この暗殺により藩政は勤王派に傾き、半平太は事実上の藩政の陰の指導者となった。同年8月、半平太は京都に出て公家との交流を開始、朝廷内での攘夷派の勢力拡大に貢献した。
土佐勤王党の絶頂期だった。
"藩を挙げて勤王の道に殉ぜよ。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
武市瑞山関係文書
国立国会図書館憲政資料室
土佐勤王党結成期の書状を含む一次史料
- 学術文献
武市半平太伝
松岡司 / 新人物往来社
土佐勤王党の結成過程を実証的に検討
- 公的所蔵
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