関連レポート
1639年鎖国——四郎の死と、以後二百三十年の日本の閉ざされ方
1638年の原城陥落から一年、1639年7月、幕府はポルトガル船の来航を禁止した。以後二百三十年間続く『鎖国』体制の直接的契機となったのが、島原の乱と天草四郎の死だった。
1639年(寛永十六年)7月、江戸城。徳川幕府は『ポルトガル船来航禁止令』を発布した。以後、南蛮貿易は完全に停止、外国との公式な接触はオランダ商館(長崎出島)と中国船・朝鮮通信使のみに限定される。
この体制は1854年のペリー来航まで二百三十年間続き、後世『鎖国』と呼ばれることになる。この体制確立の直接の契機となったのが、前年1638年に鎮圧された島原の乱と、その総大将・天草四郎の死だった。
1637年以前の対外政策
1614年の慶長禁教令以降、幕府はキリシタン弾圧を段階的に強化していたが、対外貿易は継続していた。ポルトガル船・スペイン船の来航は制限付きで許可され、平戸のオランダ・英国商館は活動を続けていた。
1633年から1635年にかけて、日本人の海外渡航禁止・帰国禁止などの海禁政策が段階的に整備されたが、外国船の来航そのものは規制の途上だった。この段階では、後の『鎖国』体制はまだ完成していなかった。
島原の乱が示した衝撃
島原の乱で幕府が受けた衝撃は複合的だった。第一に、キリシタン共同体が一万五千の戦闘員を動員しうる存在であること。第二に、その一揆勢が幕府軍十二万を三か月以上釘付けにできる軍事的能力を持つこと。
第三に、ポルトガル・スペイン系の宣教師とキリシタン共同体の潜在的な結び付きの脅威。この認識が、幕府にとってキリシタン系外国勢力の排除を絶対的優先課題とする決定的契機となった。
1639年の禁令と『鎖国』の完成
1639年7月のポルトガル船来航禁止令により、南蛮貿易は完全に断絶した。1641年、平戸のオランダ商館は長崎出島に移転させられ、以後の対欧貿易はオランダのみに限定される。
この一連の政策により、後世『鎖国』と呼ばれる体制が完成した。四郎ら一揆勢の死は、この体制確立の直接的な政治的原動力となった。二百三十年後の1854年、ペリー来航により鎖国は終わるが、この二百三十年の日本の対外的閉鎖の起点に、十七歳の少年の死があった。
現代の記憶と世界遺産
2018年、原城跡を含む『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』がユネスコ世界文化遺産に登録された。四百年前の宗教戦争の記憶が、現代の日本と世界の共通の歴史遺産として位置付けられた。
天草四郎という十六歳前後の少年が、二百三十年の日本の対外閉鎖の起点となり、四百年後の世界遺産登録にまで繋がる。この歴史の連続性は、島原の乱という一事件が持つ重みを象徴する。
"ポルトガル船、以後日本に来るを許さず。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
徳川実紀
江戸幕府編纂
島原の乱後の対外政策変化を伝える
- 学術文献
島原の乱
神田千里 / 中公新書
乱と鎖国完成の因果関係を実証的に検討
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート