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原城籠城——十二万の幕府軍に三万七千の一揆勢が三か月耐えた戦い

1637年12月、島原・天草の一揆勢は廃城となっていた原城に立て籠もった。総勢三万七千に対し、幕府は十二万を動員。三か月以上の籠城戦は日本の宗教戦争史における最大規模の対決となった。

天草四郎原城籠城戦

1637年12月4日、肥前国原城(現在の長崎県南島原市南有馬町)。島原半島南端に築かれた廃城に、天草四郎率いる一揆勢三万七千が入城した。かつて有馬氏の城で、1614年の一国一城令により廃城となっていた要害だった。

海に張り出した断崖の上に築かれた立地は籠城戦に適し、四郎らはここを最後の拠点と定めた。以後三か月以上、日本史上最大規模の宗教戦争の籠城戦が始まった。

幕府軍の大動員

幕府の対応は当初、九州諸大名による対応で済ませようとしたが、一揆勢の抵抗が予想以上に強く、規模が拡大した。1638年1月、幕府は老中・松平信綱を総大将として派遣、動員兵力を最終的に十二万余に増強した。

一揆勢三万七千(うち戦闘員一万五千前後)に対する四倍の兵力である。この規模は江戸期の内乱としては最大級で、大坂夏の陣(1615)以来の大動員となった。二百六十年続く江戸幕府が、平和期に軍事的に本気になった稀有な事例である。

オランダ船による砲撃

1638年2月、幕府は平戸のオランダ商館に依頼し、船『ライプ号』から原城に砲撃を加えさせた。プロテスタント国オランダが、カトリック系のキリシタン一揆に対して幕府側から砲撃するという奇妙な構図が生じた。

オランダ側の意図は、幕府との貿易関係を確保するための協力だった。この砲撃は籠城側の士気を大きく削いだ。宗教的対立と国際政治が奇妙に交錯した瞬間として、島原の乱の特殊性を象徴する場面となった。

1638年2月28日の総攻撃

三か月の籠城で一揆勢の食料は尽き、多くの死傷者を出していた。1638年2月28日、幕府軍は総攻撃を開始。翌29日までに原城は陥落、四郎を含む一揆勢のほぼ全員が殺害された。

生き延びた者は数百人程度と伝わる。四郎の首は長崎の出島前に晒された。享年十七前後。日本史における十代の指導者としての稀有な最期だった。四か月にわたる籠城戦は、幕府軍にも一万人前後の死傷者を出した激戦だった。

"原城陥落、四郎以下ことごとく討ち死に。"
島原記(趣旨)

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    島原記

    江戸初期成立

    原城籠城戦の経緯を伝える

  • 学術文献

    島原の乱

    神田千里 / 中公新書

    原城の籠城戦を実証的に検討

  • 公的所蔵

    原城跡

    長崎県南島原市南有馬町

    2018年ユネスコ世界文化遺産登録

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第十章 — 関連レポート

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