関連レポート -- 公開日: 2026-05-01
なぜ伊達政宗は侍をローマへ送ったのか——慶長遣欧使節1613
鎖国の四十年前、独眼竜は180人の使節団を太平洋越しにメキシコ・ローマへと送り出した。使命は失敗した。だがその試み自体が、江戸初期史で最も奇妙な物語である。
慶長18年9月28日(西暦1613年10月28日)東北の小港・月浦から500トンのガレオン船「サン・フアン・バウティスタ号」が出航し、太平洋を東へ向けて舵を切った。乗員は180名。侍22名、水夫30名、商人40名、スペイン語通訳12名、そしてフランシスコ会士ルイス・ソテロである。団長は40歳の伊達家臣・支倉六右衛門常長。目的地は、メキシコシティを経てマドリード、そしてローマ。彼らは日本国「将軍」の使節ではなく(将軍はこの使節を承認していない)、仙台藩主・伊達政宗の使者だった。
日本初の正式な対欧州外交使節であった。同時に、その後二世紀半、最後の使節となるはずだった。なぜ政宗がこの使節を送ったかを理解するには、彼が藩を押し通そうとしていた、極めて狭い可能性の窓を理解する必要がある。
可能性の窓
1613年、徳川の太平はまだ十年目で、キリスト教に対して敵対的ではなかった。家康は二十年にわたりマニラ・メキシコ経由のスペイン交易を支持していた。キリスト教は黙認され、九州には大規模なキリシタン人口があり、本州中部にも存在していた。最終的な「鎖国」は十二年先のことで、政宗の位置からはまだ見えていなかった。
仙台から見えていたのは、機会である。スペイン帝国はアカプルコを通じて世界最大の銀経済を回していた。東北がヌエバ・エスパーニャと直接交易できれば、政宗は徳川支配下の長崎経由太平洋海運をバイパスし、自前で欧州の武器・技術・銀を輸入できる。それには二つが必要だった。太平洋級ガレオン船と、条約である。
船
政宗は1611年の自身の不運な使節の後に日本に取り残されたスペイン人航海士セバスティアン・ビスカイノを雇い入れて船を得た。ビスカイノが月浦の伊達造船所でサン・フアン・バウティスタ号の設計と建造監督を行った。日本人大工がスペイン人の図面で四十五日かけて建造した、日本初の外洋ガレオン船である。太平洋を毎年横断するマニラ・ガレオンを範とした500トン級だった。スペイン側の記録は「アカプルコ港に入った中で最大の船」と記している。
航海
横断は三か月かかった。サン・フアン・バウティスタ号は1614年1月25日にアカプルコに到着。使節団はメキシコを陸路で横断してベラクルスへ、そこからスペインのガレオン船でハバナを経由、アンダルシアのサンルーカル・デ・バラメダに上陸した。支倉常長は1615年1月30日にマドリードに入り、フェリペ三世に謁見した。スペイン側は丁重に好奇心を示しつつも具体的なコミットを避けた。仙台との太平洋通商提携は理論上は興味深いが、政治的には扱いにくかった。スペイン宮廷は使節をローマに送り出した。
支倉は1615年11月3日、正装の侍姿でローマに入った。ポポロ門を抜け、枢機卿とローマ貴族に伴われた。教皇パウルス五世は私的謁見で支倉を迎えた。教皇は政宗の書簡(スペイン交易拠点を仙台に置き、フランシスコ会士派遣を要請する)を聞き、何も約束しなかった。ローマ元老院は支倉に名誉市民権を授けた。肖像画が描かれた。使節団は長い帰路についた。
帰還
1618年に支倉がマニラに着いた頃、戻る先の日本は変わっていた。徳川家康は1616年に没していた。新将軍秀忠はキリスト教の体系的禁制を始めており、伊達領も(政宗自身は健在だったとはいえ)もはやスペイン人宣教師を公然と受け入れられる立場ではなかった。1620年に支倉が仙台に上陸したとき、彼が後にしたのとは別の国があった。
支倉は二年後に没した。ある記録は最後までキリシタンだったとし、別の記録は家族を守るために密かに棄教したとする。彼がスペインと交わしかけた条約は批准されなかった。アカプルコへの交易ルートは確立されなかった。使節団は、外交上のあらゆる測定可能な意味で、失敗だった。
それでもなぜ重要か
慶長遣欧使節が証明するのは、日本の鎖国は内側から見れば必然ではなかった、ということである。海岸の港と、スペイン領メキシコとの実働関係を持つ大藩の主は、太平洋経済に統合された日本を構想し、実際に試みることができた。政宗は突拍子もない人物ではない。家康と同じ「窓」を読んでいた。鎖国が起こったのは、徳川が「キリスト教の精神的・政治的リスクは交易の経済的恩恵を上回る」と判断したからである。それは選択であり、必然ではなかった。
支倉の肖像画(正装の裃と刀を帯びた侍を、1615年のローマでイタリア人画家が油絵で描いたもの)は今もボルゲーゼ美術館に掛かっている。同定可能な日本人を描いた、現存最古の欧州の油絵である。描かれた男は太平洋を二度渡り、三人の教皇と一人の王に会い、ローマ名誉市民となり、自国では無名のうちに没した。日本がまだ準備できておらず、1860年代まで再び試みることのなかった何かを試みた末に。
"義に過ぐれば固くなる、仁に過ぐれば弱くなる"
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